自宅の倉庫部屋を整理して、死蔵本を大量に処分したハナシ。 [本]

2018年10月。ワタクシ、8年間、手つかずだった大シゴトに着手したのであります。それは

倉庫部屋の片づけ

であります。8年前、今の家に引っ越してきたとき、本だの書類だのを詰め込んだ大量の段ボール箱を2階一室に「仮置き」したんです。未開封の段ボール箱が山積みになったその部屋は、足の踏み場もない倉庫の様相を呈していたわけです。

ひと部屋、使えないけど仕方ないや、と自らの怠惰をエクスキューズし、放置していたところ、恐ろしいことに倉庫部屋にはさらなる不用品が増殖しました。木材、シール材、余った電線やケーブル、ストーブ、故障したオーディオ・・・そんなもろもろが集結し、倉庫部屋というよりゴミ集積所の有様です。

さすがのワタクシもこれはイカン!と一念発起。重い腰を上げ、片付けに取り掛かったというわけ。とはいえ見えている段ボール箱は氷山の一角。クローゼットのなかにも箱、箱、箱・・・。箱を引っ張り出し、整理するぞ!と気合いを入れたものの、たかが30分で嫌気がさします。

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そう、箱を開けただけでは何も減らない。勝間和代さんに言われるまでもなく、中身の「廃棄、破棄」が必須です。8年間も開けなかったから、何も考えず箱ごと捨てればいいじゃん、と思ってもそうは問屋が卸さない。

箱の中身が「本」なのは悩みどころです。レイ・ブラッドベリの「華氏451度」じゃないが本を捨てる、という行為に、単純に抵抗があります。さりとて古本屋まで運ぶのも大変だし・・・ま、作業を進めながら考えましょう。

いやはや出るわ出るわ。映画のチラシやパンフレット。学校の教科書、参考書。技術文献。旅行先の地図や宿泊領収書。画集、写真集、ハードカバーの小説、文庫本、新書・・・あまりにイロイロ出てくるので、いつの間にか楽しくなって、かえって時間をロスしてしまう。

下写真。左上は学生時代に使ったドイツ語教科書。いったい何のために持ってたのか?即、破棄ですね。その右は工業系ハンドブック。私の提供した文章と図表がはじめて本に載った思い出の品ですが、800ページの分厚さゆえ破棄です。

雑誌「ユリイカ」がやたら出てきます。左下はトリュフォー監督の特集号。表紙イラストはジャクリーン・ビセットが出演していた映画「アメリカの夜」、懐かしいけど破棄。右下は、1993年に日本で巡回開催されたシャイム・スーティン生誕100年記念展覧会のカタログ。これは捨てないぞ。

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うわあ、大阪で買ったユイスマンスの著書ふたつを発掘。「三つの教会と三人のプリミティフ派画家」「黒ミサ異聞」、これはレアですねえ。絶対、重版してないでしょう。ワタクシ、ユイスマンスは「さかしま」「彼方」の二冊保有で満足なので、もったいないけど破棄だ!いや、待て、どなたか欲しい方がおられれば連絡ください。ただで差し上げます。

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また渋い本が出てきましたなあ。チェンバリストでもある渡邊順生(よしお)さんの大著「チェンバロ、フォルテピアノ」です。そしてエルンスト・ブロッホ著「ルネサンスの哲学」です。どちらもピカピカ美本なのは、ほとんど読んでいない証拠か?

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こんな調子で、箱を開けては中身を出し、破棄本を束にしてひもで縛り、また箱を開け・・・の作業を延々と繰り返すワタクシ。まるで、シーシュポスの神話・・・って、そこまで無為じゃねえよ。

ショックな発見がありました。同じ本を2冊買っていたことが今になって判明。1冊目の保有を忘れ、同じ本をまた買うつう、我ながらバカかいな、と思う。

たとえばジャック・プレヴェール詩集2冊。見た目は違うけど訳は同じ小笠原豊樹さんで、掲載詩も同じでした。そういえば小笠原豊樹さんはレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を訳してましたね、「華氏451度」は・・・あ、話が戻った。

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こちらに至っては、まったく同じ2冊の本。瀧口修造先生「幻想画家論」。どちらも古本屋で購入し、どちらも「新装改訂版」とあって、ワタクシをゲンナリさせてしまうのでした。一冊は破棄ですかね。

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てなわけで、まだまだ倉庫部屋の整理作業は継続中であります。奥のほうに隠れている開かずの段ボール箱から、このあといったい何が出てくるのか・・・怖いようなワクワクするような。

それではここでジャック・プレヴェールの詩をひとつ。

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天にましますわれらの父よ

天にとどまりたまえ

われらは地上にのこります

そして段ボール箱を片付けます

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・・・おっと、最後の1行はわざとらしかったですね。ちゃんちゃん。

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伝説の雀鬼こと桜井章一さんの生き方本2冊の内容が、いちいち腑に落ちた日。 [本]

2018年のゴールデンウィーク。

脱水症状と極端な体重低下により、命の危機に瀕した我が家の飼い猫、もこ(21歳)を動物病院へ連れていく毎日です。連日、動物病院で点滴をうけた結果、もこの病状はおおきく改善。ここ数日、元気に活動しています。流動食一辺倒の病人(病猫)生活から脱し、固形食を少しづつ食べるようになりました。お医者さんのご親切と、動物医療の進歩に深く感謝っす!

かような老猫介護を中心に据えつつ、日にCD4枚を聴き、庭の草木に水をまき、録り溜めた「タモリ倶楽部」「酒場放浪記」「博多華丸のもらい酒みなと旅2」を観る、なんともユルい生活であります。

そんななか、読んだ本がこの2冊。

20年間無敗を誇った麻雀打ちであり、伝説の雀鬼の異名を持つ桜井章一さんによる生き方指南本(といえばよいのかな?)2冊であります。

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ワタクシ、人生ウンヌンだ、生き方ウンヌンだ、をテーマにした本が、基本、大嫌いであります。なぜか、といえば、その類の本って、読み手の弱いココロをくすぐる「きれいごと」が並んでいるだけ、だから。当然ですよね、人生の本などを買うヒトタチは、そもそも正論を期待して金を払うのですから、正論をいかに上手に、耳に心地よく列挙するか、がライターの腕の見せ所ですもんね。

こうした本に書いてある定番セリフは、今どきの流行りに乗っかって、「人生、無理することはない」「あなたはあなたのままで良い」「自分らしく生きなさい」なんてさあ、ガキンチョのポップバンドの歌いそうなゴタクがでっかい活字で並んでいたりする。需要があるから、手を変え品を変えその手の駄本が現れるのでしょうが、正直言って、虫唾が走りますな。と、さんざん悪口を言っておいてナンですが、

桜井章一さんの本だけは(前出のクソ本と、同じ土俵で語っちゃいけないけど)、実に、気持ちよく、ツボにはまるのであります。桜井さんが裏麻雀で20年間無敗だったかは私は分かりませんが、修羅場をくぐり、そのたび状況に対応して生き抜いてきた「重み」が文章ににじんでいます。大学のえらい(?)センセイの書く、ありきたりな人生訓とは比較にならないホンモノを感じます。

常識的な人生観と一線を画す、桜井さんのシニカルな言説にこそ、納得できるのであります。たとえば、桜井さんいわく、

 夢や希望というものは、妄想や幻想をごまかすためにあるのだということをまず自覚することが大切だ。夢や希望を錦の御旗(みはた)として掲げたら、それこそ嘘っぱちだらけの人間になってしまう。夢がなければ生きられないとか、希望があるから生きていけるとか、そんなものは人間の”生(せい)”とはまったく関係のないことだ。現に、私は夢や希望を抱いたりしたことはない。でも、今、こうして私は生きている。 (「人を見抜く技術」より)

うーん、渋い。そして正しい。夢や希望に過剰な価値を求めない(与えない)というのはワタクシの哲学でもあります。世間はなにかと夢だの希望だのを殺し文句に持ち出しますが、おいおい、皆が皆、オリンピックを目指すアスリートじゃねえよ、と言いたいねえ。

桜井さん、信念、については、こう述べておられます。

 本当に大切なのは、幹のように見える部分の信念ではなく、枝や葉のようにみえないもののほうなのである。多くの人が誤解したまま抱いている「信念」は、その人を固定観念の固まりにし、ものごとの本質を見えなくしてしまう。でも「木には幹だけでなく、枝も実も根もあるんだ」という広い視野を持てば、そんな曇った視界を晴らすことができるのではないだろうか。 (「手離す技術」より)

こーゆー記述に対し、素直に腑に落ちることができないガキンチョ(年齢のことではなく、精神のこと)が、世間にはゴロゴロしているだろうなあ、と変な想像をめぐらせたところで、今日はお終いっ。チャオー。

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内田百閒さんの短編小説「サラサーテの盤」を読んで、ゾーーッとした日。 [本]

2018年3月。

前回記事で内田百閒(うちだひゃっけん、1889年~1971年)のエッセイ集「うつつにぞ見る」について書きました。やがて映画「ツィゴイネルワイゼン」(1980年、鈴木清順監督)へと連想が飛び、そういえば、と、映画の原作(のひとつ)と目されている内田百閒さんの小説「サラサーテの盤」を読みたい、と書いたわけです。その翌日のこと。自宅近くの図書館に、借りた本を返しにいったさい、ふと小説コーナーの棚を眺め、この本を発見したんですなあ。

百閒さんの短編を集めた岩波文庫「東京日記 他6篇」であります。

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もしや、と思い、頁を繰ると、まさしくワタクシが読みたかった「サラサーテの盤」が収録されているではないか。やったぜえ!

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ある小説を読みたい、と思った矢先に、それに遭遇すると、大げさですけど運命的なものを感じますなあ。東野圭吾さんや浅田次郎さん、村上春樹さんのような現役の売れっ子作家や、夏目漱石さん級の大御所なら、どんな作品も比較的簡単に読めるでしょうけど、今回のターゲットは、内田百閒さん、ですぜ。こんなにうまくは遭遇できますまい。

などという前段のハナシはどうでも良いのであります。

ワタクシ、図書館から自宅に帰ると、さっそく小説「サラサーテの盤」を読みました。

映画「ツィゴイネルワイゼン」との共通点といっても、映画を観たのが36年前なのでイマイチ、ピンときませんでした。ただ作曲者サラサーテ本人が弾く、ヴァイオリンの名曲「ツィゴイネルワイゼン」のレコードに、なんらかの手違いで、サラサーテの肉声が混じっている、という会話は、たしかに映画の冒頭にありましたっけ。

小説「サラサーテの盤」は、そのエピソードをからめつつ、日常のなかの、非日常、といった薄気味悪さがたまらないのでした。死んだ友人の未亡人が、夜、唐突に家にやってきては、「主人があなたに貸した物を返してくれ」と無表情に要求する、その、どうってことのないようでいて、なんだか気色が悪くって、気持ちがザワザワ落ち着かず、しまいに悪寒が走るような感じ・・・が、もう何とも言えないのでした。

ああ、内田百閒さん。

エッセイでは日々の出来事をユーモラスかつ自虐的に語り、読み手をニンマリさせておきながら、小説では読み手をいやな気持にさせたり、ゾッとさせたり、こりゃあ、どうしたわけですか。

あなたのご面相、だてじゃないってことですか・・・とプチ文句を書きつつ、むしろ、内田百閒さんワールドにはまってしまいそうなワタクシです。

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こうなったら、ちくま文庫の「内田百閒集成、全24巻」を、どーーーんと、まとめ買いするしかないかあ、とまで思いつめるのであります。

全24冊を購入したら、それを抱え、百閒さんの「阿房列車」に倣い、山形県あたりへ無目的の列車旅に出ようか・・・うわあ、完全にオレ、「百閒毒」に侵されてるわ。いかん、いかん、と覚醒したところで今日はお終いっ。ぞぞーっ。

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内田百閒による人物エッセイ「うつつにぞ見る」から、鈴木清順監督→狸へと連想が広がった日。 [本]

2018年3月。今週は、5日(月)に札幌へ出張移動、7日にいったん東京へ戻り、8日に再び札幌へ。10日に東京へ戻り、13日(火)から福岡へ・・・と、なかなか愉快なピンポン移動の最中であります。

札幌は路上がツルツルでした。明け方の寒さで凍った路面に、日が昇るとうっすら水が溜まりスケートリンク状態。地元民でさえ、転ばぬようソロリソロリ歩くくらいですから、観光客などひとたまりもなくコケております。怖いねえ。

さて今回札幌で宿泊したホテルのすぐ近くに、古本屋さんがあり、昨日、こんな古本を買いました。

内田百閒(うちだ ひゃっけん)著「うつつにぞ見る」。定価1050円が、古本で350円。ラッキー。

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内田百閒さん(1889年~1971年)は当ブログで何度か取り上げました。ワタクシ、小説はあまり読んでないですが、エッセイ(随筆というべきか)は大好きなんです。無為なる旅エッセイ「阿房列車」シリーズのトンチンカンっぷりは絶品です。一転、可愛がっていた野良ネコが行方不明になり百閒さんが日々泣き明かす「ノラや」は、猫好きでしたら涙無しには読めません・・・う、う、涙が・・・。

百閒さんのトレードマークは、このコワモテ顔です。こんな渋面からは想像できない、ひょうきんさ、繊細さ、臆病さが、エッセイに、にじみ出てるとこが、たまらん魅力ですね。

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今回、購入した「うつつにぞ見る」に話を戻します。雑誌に発表されたエッセイの寄せ集めで、共通しているのは、「人物」をテーマにしていること。

登場する人物は、百閒さんと交流の深い方(音楽家の宮城道雄さんなど)だったり、一般人(学校での教え子、経済界のヒト)だったり、それほど深い付き合いのない有名人(谷崎潤一郎氏、正宗白鳥氏など)もおります。

エッセイの内容を書くのは野暮ですね。書き出し一行目の、さら~っとした、そっけなさが良い味だ、とだけ申し上げておきましょう。

「山中君が来た。(『離愁』より)」

「徳川夢声さんが入らしたと云う。(『門の夕闇』より)」

「四谷怪談のお岩稲荷のある四谷左門町に鈴木三重吉さんがいた。(『四谷左門町』より)」

百閒さんの少々懐古的、かつウイットのきいた文章を読みつつ、ワタクシは、あ、そうだ、と思い出しました。

私が内田百閒の名を初めて知ったのは1981年。鈴木清順監督、原田芳雄、藤田敏八主演の映画「ツィゴイネルワイゼン」がきっかけでした。

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サイケで、エロチックで、ストーリーらしいストーリーもなく、それゆえ、これ、もしかしてスゴい映画じゃないの的な謎のプラス評価だった作品。その原作(の一部)と世間がみなしたのが内田百閒さんの小説「サラサーテの盤」だそうで、当時、大学生だったワタクシは「ふーん」と思った。思ったが、原作小説までチェックする気はなく、あれよと、35年以上が経過したのでした。

またぞろハナシは戻り、前述のエッセイ本「うつつにぞ見る」の表紙です。「内田百閒集成17」と記載があり、おやおや、とチェックしてみると、集成4、がまさに「サラサーテの盤」なのであった。

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おお、とワタクシ、ホテルを出ると先ほどの古本屋に戻り、必死に本棚をチェックしましたが、願いかなわず「サラサーテの盤」は入手できず・・・残念だ。来週、八重洲ブックセンターに行って新本で買うとするか。

・・・などと考えていて、さらに連想が広がります。映画「ツィゴイネルワイゼン」の監督、鈴木清順さんのことです。「ツィゴイネルワイゼン」の予想外のヒットを受けてか、清順さんは、その後、松田優作さんや、沢田研二さんを主演にケレン味たっぷりのブンガクテキ映画を撮っておりましたっけ。

時は過ぎて2005年のこと。なんと鈴木清順さんが、オダギリ・ジョー(イケメン)と、チャン・ツィイー(超美人)をキャストに迎え映画を撮るという。なんちゅう唐突。ワタクシ、劇場で公開されるや、映画館に行きました。忘れもしない横浜の高島町のシネコン。

その映画が、これ。「オペレッタ狸御殿」。

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正直、いやな予感はしてたのであります。そして映画が進むにつれ、いやな予感が的中したことを身に染みて感じたのであります。高橋英樹主演「けんかえれじい」を撮った鈴木清順監督の偉業にケチをつけるわけではないが、「オペレッタ狸御殿」は、あまりにも酷い出来であり、関係者にとって消し去りたい過去であろう。いや、ノコノコと劇場までこの映画を観に行ったワタクシ自身が恥ずかしい。怪優 平幹二郎さんをしても、この映画をどうにもできなかった・・・つうか、平さんがヤバさを助長していましたっけ。

いったいどうしたのだ、清順監督!

「漂流教室」なる超駄作を世に放ったゆえに、それまでの業績まで地に落ちた大林宣彦監督と同じテツを、清順監督が踏んでしまうとは。。。

と、内田百閒さんのエッセイ本から、時代を遡って連想が広がったところで、今日はお終いっ。チャオー。

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ブコウスキーのグダグダな紀行エッセイを読んで、ケルン大聖堂を回想した日。 [本]

世の中には、妙な偶然があります。前回記事(2017年11月28日)で某アマチュアオケの演奏会について書きました。シューマンの交響曲3番「ライン」を聴いて、昔ドイツ出張でライン河とケルン大聖堂へいった件を思い出したわけです。

さて妙な偶然。

記事を書いた、まさにその日の夜、読んでいた本に、著者がドイツで私と同行程、つまりケルン大聖堂へいきライン河で観光船に乗った顛末が出ていて、おぅ!と感激した次第。いや感激は大げさですね、へえ~と思った程度か。有名な観光コースだもんな。いずれにしても、ライン河の船着き場で、酷い音質と、ドでかい音量で流れていたシューマン「ライン」のテーマが再び思い出されました。その本がこれです。

チャールズ・ブコウスキー著「ブコウスキーの酔いどれ紀行」。

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ブコウスキー(ドイツ生まれのアメリカ人。1920年~94年)は、1970年代にマニアック人気を博した破滅型の作家です。死後20年たった今、パンクだ、カルトだと、もっともらしい冠が付き、既成概念と体制に反発し信念に生きたスゴイ人、みたいな位置づけのようだが、ハッキリ言って、このひと、クソ人間です(ご本人もそうおっしゃっていたが)。

重度のアル中。女好き。失礼極まりない暴言野郎。「友人にしたくないタイプ」です。

もしブコウスキーさんが今も生きていて往年の調子でブログやツイッターを始めたら、炎上どころか人種差別野郎のレッテルを貼られ作家として生きてはいけないでしょう。いや、銃で撃たれるかもしれない。日本には、「歯に衣着せぬ」という暴言を庇護する便利な言葉があり、かつエクストリームを有難がるの民族なのでカルト人気を維持できたかもね。

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前置きは以上で「酔いどれ紀行」です・・・ん、変な邦題だ。原題「Shakespeare Never Did This」=シェイクスピアは決してそれをしなかった、で良いじゃん。なんだよ、「酔いどれ」って。トム・ウエイツさんもこの変な日本語の被害者だと思う・・・あれ、また話が散らかった。

この本、58歳のブコウスキーさんが、ガールフレンド(!)と生まれ故郷のドイツ、その後フランスを訪れた際の一連の出来事を時系列的につづったもの。当時(1978年)すでに有名作家でしたから、先々で雑誌の取材を受けたり、テレビ出演をしますけど、ベロベロに酔っぱらって大失態を演じ、もう、どうしょうもないわけです。これをグダグダと言わず、なんと言えばよいのか。

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ブコウスキーさんは、ケルンで大聖堂を訪れます。ちなみに、ライン河観光は写真程度で、たぶんつまらなかったのでしょう。

ケルン大聖堂では、「幾分なりとも感動させされ」つい「物思いにふけってしまう」ブコウスキーさんが、そこで死を想うシーンがあります。渋いなあ、と思いました。好き嫌いは別としてブコウスキー節が全開。これだよネエ!と嬉しくなる。私は西洋建築に心が動かないが、ケルン大聖堂の威容にはビビりましたもんね。ブコウスキーさんならずとも「死」や「人生」を考察するにふさわしい異空間でしたね。

最後にブコウスキーさんの、ケルン大聖堂での物思いの箇所を抜粋し、今日はお終い。ちょいと長いですが以下、「ブコウスキーの酔いどれ紀行」より転記です。


・・・死に関しては、(臆病なわたしにしては)ほとんど恐れていなかった。わたしにとって死はほとんど何の意味もない。次から次へと続くひどい冗談の最後のひとつにしかすぎない。すでに死んでいる者にとっては死は何ら問題ではない。死はまたひとつの別な映画で、結構なことだった。

死は亡くなった人間となんらかの関係のある残された人間に対してさまざまな問題を引き起こすだけで、それらの問題は亡くなった人間があとに残した財産の大きさに正比例して、どんどん厄介なものになっていくのだ。どや街の浮浪者の場合なら、問題はがらくたの処理だけとなる。裕福に生まれついた者がいるとしても、みんな一文無しになってこの世を去っていく。

芸術家は死にあたってちょっとした遺臭を残し、それを不朽のものだと呼ぶ人たちもいて、当然の如く、作家の功績がすごければすごいほど、残す悪臭はひどいものとなる。

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突然ですが、大好きなジャック・プレヴェールの詩であります。二度目の掲載はご勘弁を。 [本]

先日。過去にない展開で、酒場で「詩」が話題になったのです。同席キコクシジョ女性が、驚いたことにランボー(シルベスター・スタローンではなく詩人)の詩をフランス語でそらんじたうえに、彼女なりの和訳バージョンまでご披露する国際派ぶりを発揮。

非グローバルで日本ドメステッ子なワタクシ、ここで中原中也や谷川俊太郎さんの詩で対抗すればカッコよかったでしょうが、ブンガク素養のないうらみで、どの詩もうろ覚え。到底、勝てっこないわ(勝ち負けかよ!)。こんな不測の事態に備え、ウイリアム・ブレイクかポール・エリュアールの詩くらいは、脳内に仕込んでおかねばなるまいナア・・・。

さて、その件がきっかけ、とまで申しませんが、本日はワタクシが愛する詩を紹介です。実はこの詩、8年前にもブログにアップしており、二番煎じどころか、まんま前回記事のコピペですわ。ははは。しかし好きなものは好きなんだ。

ジャック・プレヴェールの「セーヌ通り」です。この詩には切実なドラマがある、と思う。もちろんダンテやバイロンのドラマ性はなく、もっと卑近で、だが、それゆえにリアルで映画的です。こうゆう詩が好きなのです。そうか、ジャック・プレヴェールさんは映画の脚本家でもあったのでした。

余計な説明は、そろそろやめましょう、以下がその詩であります。


セーヌ通り 

       ジャック・プレヴェール作/小笠原豊樹訳

セーヌ通り

午後十時半

別の通りとの交差点

ひとりの男がよろめく・・・・・若い男だ

帽子と

レインコート

ひとりの女が男をゆすぶる・・・・・

ゆすぶって

話しかける

男はじぶんの頭をゆすぶる

帽子はひんまがり

女の帽子もうしろへずり落ちそう

二人とも真っ青

男は明らかに立ち去りたいのだ

消えたい・・・・・死にたい・・・・・

だが女は生きたいと烈しく願う

その声

ささやく声が

いやでも聞こえる

それは哀願・・・・・・

命令・・・・・・

悲鳴・・・・・・

一心不乱の声・・・・・・

悲しい声・・・・・・

いのちの声・・・・・・

冬の墓地の

墓石の上で震える病気の赤ん坊・・・・・・

ドアに指を挟まれた人の悲鳴・・・・・・

唄の文句

いつも同じ文句

繰り返される

文句・・・・・・

とめどなく

返事もなく・・・・・・

男は目を向ける 女を見つめる

溺れる人のような

腕のしぐさ

すると文句が戻ってくる

セーヌ通り 別の通りとの交差点

女はつづける

あきもせず・・・・・

包帯で包めない傷

不安な質問をつづける

ピエールほんとのこと言って

ピエールほんとのこと言って

わたしすべてを知りたいの

ほんとのこと言って・・・・・・

女の帽子が落ちる

ピエールわたしすべてを知りたいの

ほんとのこと言って・・・・・・

愚かな質問だ 気高い質問だ

ピエールはどう答えたらいいかわからない

途方に暮れる

ピエールというこの男・・・・・・

笑顔をつくる じぶんではやさしい笑顔のつもり

そして繰り返す

なあ 落着けよ どうかしてるぜ

だがうまく言えたかどうか心許ない

男には見えない

見ることができない

微笑にひきつれた自分の唇・・・・・・

男は息が詰まる

世界がのしかかってきて

息を詰まらせる

男は囚人だ

いろんな約束に追いつめられた囚人・・・・・・

世界は清算を迫ってくる・・・・・・

男の正面にいるのは・・・・・・

機械だ 計算する機械

機械だ 恋文を書く機械

機械だ 苦悩する機械

それが男を捕え・・・・・・

男にしがみつく・・・・・・

ピエールほんとのこと言って。


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札幌で、「アントン・チェーホフの遺産 ≪サハリン島≫2017」展を拝見したハナシ。 [本]

北海道出張のさいに、札幌である展覧会を拝見しました。2017年9月9日~11月19日、中島公園内の北海道文学館で開催中の

「アントン・チェーホフの遺産 ≪サハリン島≫2017」展、であります。

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ロシアの文豪アントン・チェーホフさん(1860年~1904年)については、当ブログで何度か取り上げております。そう、ワタクシは、チェーホフさん(の小説)にぞっこんで、そのことをご存じの友人Aさん(札幌在住)が、このイベントを私に教えてくれた次第。これが北海道文学館です。

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ポスターから分かりづらいですけど、この展覧会はチェーホフさんが1890年に敢行したサハリン紀行にフォーカスした企画です。北海道出身のワタクシは、サハリン島と聞けば「ああ、樺太ね。」とピンときますが、きょとんの方もいると思うので地図をつけておきます。北海道の北にあるロシア領の巨大な島のことですね。

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チェーホフさんは、24歳でモスクワ大学の医学部を卒業して医師となり、28歳には小説を評価されて最年少でプーシキン賞を受賞する、エリートかつ俊英なのでした。

その彼が、なんの動機か、30歳でモスクワから1万kmも離れたサハリンへと向かったんですね。当時はシベリア鉄道もなく、流刑地サハリンは、文字通り「地の果て」だった。約3か月の苦難の移動をへて、目的地へ到着したチェーホフさんは、各地のレポートだけでなく、1万件の住民調査という執念の仕事を成し遂げています。

医師で文学者の彼が、なぜそこまでの情熱をサハリンへ傾けたのか・・・疑問は展覧会で判明するどころか、過酷な現地状況を示す展示物をみるほど、深まっていくのでした。

チェーホフさんが訪れた街の、当時の様子と、現在の写真の比較展示は見応えがありました。さらにサハリンに関わりのあるロシア芸術家の作品や、日本の作家のサハリン関連本も紹介されていて、イベント企画スタッフの努力とご苦労に敬服しました。

そういえばワタクシ、チェーホフ好きを自称していながら、著書「サハリン島」は未読でした。チェーホフさんとルポルタージュの組合せが、私の中でしっくり結びつかなかった故ですが、今からでも読まねばなるまい!

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最後にひとつ。他人のミスをみつけ、鬼の首でもとったような言動は嫌いですが、本展覧会の展示の「間違い」について書きます。

展示室の壁にかかったチェーホフさんの「サハリン島」の原稿(複写)が、上下さかさまに掛けられていたのです。これは正しい向きのその原稿。

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間違いに気づいた理由は、文章をしっかり読んだからではなく、一行目の数字「1890」です。それが、さかさまだったから。この箇所ですね。

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もちろん、このことは係員の方に伝えて、すぐに正しい向きに掛け直していただきました。私が会場に行ったのは、イベント初日でもあり、たいしたハナシじゃないかもしれません。でも、展示は、もうちょっと注意深くやってほしい、と思う次第です。シロウトの私でさえ、気づくようなミスは、いけませんね。

こんなことを書くのは、最近、展覧会やコンサートの会場で、あまりにずさんな展示や表示を多く見るからです。たとえば、今年前半、八王子の富士美術館の某展覧会では、アートショップで、恐ろしいことに、画家の名前を取り違えていたのです。多少でも美術が好きなら、間違えようもないキスリング作品に、違う画家名をぶらさげていた!このときも、即座に指摘して修正してもらいました。

エラソーになりますけど、お金をとるイベントなら、展示するひともプロとしてしっかり仕事をしてほしいと思います。

・・・と、せっかくの良いイベントへの記事が、最後にネガティヴ苦言になってスイマセンーーー。ちゃんちゃん。

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リディア・アヴイーロア著 「チェーホフとの恋」。回想録ですが、これって事実なの?と疑いたくなるドラマチックな面白さ。 [本]

札幌在住のAさんが、ワタクシに本を貸してくれました。めっぽう面白かった!それが

リディア・アヴイーロア著 「チェーホフとの恋」であります。

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私が、ロシアの作家チェーホフを好きだと知ったAさんが勧めてくれたのです。

著者リディア・アヴイーロアさん、お名前初耳でしたが、チェーホフと同時代の女流作家だそう。リディアさんは既婚者ですがチェーホフへ恋心を抱き、いっぽうチェーホフさんも彼女に対し、まんざらでもない・・・ような・・・と煮え切らずイライラさせるところが文学者のテクニックか?

出版元の未知谷さんのHPに、本書が紹介されています。端的にまとまっているので以下、HPより抜粋です。

<1889年の出会いから1899年の別離まで、10年間のプラトニックな愛憎劇。家庭人でもある女流作家が、手紙と回想で綴る濃密な恋。あまりの面白さゆえ単なる創作ではないかと評された時期もあるが、現在では44年の生涯で唯一真剣と言われるチェーホフのもう一つの真実を伝える作品と評価されている。>

さすがプロのライターは違う。的確に本書のツボを示しています。

そうなんですよ。「あまりの面白さゆえ単なる創作ではないか」という疑念は、読みながら私も感じました。プラトニックとはいえテーマは人妻と小説家の「あいびき」つまり不倫ですね。ところが本著には、昨今の芸能人不倫のゲス的ドロリ感は皆無であり、気持ちよいほどの純愛ストーリーなんです。周囲にいろんな出来事が目まぐるしく発生するので、小説的というか映画的というか。

たとえば著者(リディアさん)がチェーホフの真意を測りかね、やきもきしたり、すねたりする前半は、みごとに青春ドラマの体であります。話が進むと、行き違いばかりで二人がなかなか会えない状態が続き、やっと会えたとき、彼は病の床・・・こうした山あり谷あり展開は、韓流恋愛映画の常道ですもんね。さらに「ロミオとジュリエット」の神父さんよろしく、惹かれあう二人を応援する助っ人的キャラまで現れて、着実にドラマを盛り上げます。ハイライトは、チェーホフの戯曲の上演初日、観客席にいるリディアさんだけに分かるメッセージを、チェーホフがセリフに忍ばせるシーン。おいおい恋愛下手のふりして、なかなか粋じゃん、オジサン!文学を理解しあう者どうしが、文学を介し心を通わせる最高にドラマチックな場面です。ワタクシ、涙腺がゆるみウル~ッとしちゃいました。

語り手であるリディアさんの「脚色力」によるところも大きいですが、ほんと、これ映画化したい。良くできた恋愛ストーリーなのであります。

無駄に話が長くなってすいませんが、本著で、ワタクシが最も驚いたエピソードについて書きます。

チェーホフは1897年に大喀血して緊急入院します。それを知ったリディアさんが病院に駆け付けます。二人の悲しい再会シーンは感動的・・・ですけど、驚いたのはそのあと。リディアさんが病院を出て道を歩いていると、偶然にトルストイに出会うんですよ・・・えっ?トルストイ?「戦争と平和」の著者、ロシアの文豪ですか!?リディアさんが、チェーホフが入院したことをトルストイに教え、トルストイは翌日、律儀にチェーホフのお見舞いにいく・・・と、こうゆう流れです。

どうでもよい話に思えるかもしれないが、トルストイは1828年生れ、チェーホフは1860年生れですから、32歳もトルストイが年上。そんな二人が知り合いで、さらにトルストイはチェーホフ(の小説)を高く評価していた、と知ってビックリでした。だって作風がまるで違うんですから。ちなみにお二人が一緒に写った写真も残っていたんですね(下)。

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ただしワタクシが一番驚いたツボは、「リディアさんが道で、『偶然に』トルストイに会った」という事実そのもの。あの広大なロシアで、ですよ。あまりに話が出来すぎ、つうか。。。ま、「事実は小説より奇なり」という言い古された言葉もありますしね。ケチをつけてはいけません。

回想録にしては面白すぎる「チェーホフとの恋」、読み始めたら止まらず一気に読み切ってしまいました。Aさん、本を貸してくださってありがとうございました!

ところで(とまだ続くんかい)、ごくごく冷静に考えると、チェーホフというオッサンは困ったヤツだと思う。もしも彼がリディアさんに恋していたなら、言動は優柔不断な噴飯ものだし、逆にもしも彼がリディアさんに恋心がないとしたら、思わせぶりな言葉で女をたぶらかす食わせ者、と言えましょう。どっちにしてもアンタは悪いっ!

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椎名誠さんの痛快エッセイ「殺したい蕎麦屋」に大笑い。私も殺したい〇〇屋を思い出しました。 [本]

出張移動のヒコーキのなかで、この本を読んでバカ受けしちゃいました。

椎名誠さんのエッセイ集「殺したい蕎麦屋」であります。

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本のタイトルでもある、殺したい蕎麦屋がなんといってもケッサクです。椎名さんの憤りに、そうそう!と同意の声が出ちゃいますもん。

彼は何に怒っているのか?蕎麦屋に対して、です。もちろん世間すべての蕎麦屋が矛先ではありません。東京都心あるいは蕎麦自慢の地方にある「勘違いの店」が俎上に上げられます。

殺意を起こさせるパターン1は都心の、やたら値段が高いわりに、蕎麦はチョッピリという高級店。お前に蕎麦が何が分かる!と言われればそれまで、とエクスキューズしたうえで、それにしても、と椎名さんは憤ります。ヒトとのつきあいで仕方なく入った店は、BGMがヴィヴァルディ(!)、そんな蕎麦屋があるか、と嫌な予感がする。一番安い、せいろそば1260円を注文すると、数えるほどしか、そばがなく(ざっと見て20本!)どんなにゆっくり食べても2分もかからず食い終わる。

椎名さんは本数20で、1260円を割り算し、そば1本が63円、この麺3本で駅の立ち食いソバが1杯食えるぞ!と不毛な算術をして殺意をたぎらせるのでした。わかるなあ、その気持ち。これは殺したい蕎麦屋に認定必至ですね。

パターン2。そばが名産の某地方の勘違い店です。蕎麦のつけ汁が、麺つゆではなく、なんと「水」。店主いわく蕎麦の風味を味わうなら、つゆではなく水が一番と!まさに阿呆、バカヤローの極みですな。

蕎麦屋以外の、某イタリア料理店(都内)へも怒りがさく裂です。真夏にビールを注文すると、常温の生ぬるいビールが供され、店員が「本場ですから」とうそぶく始末。冷えたビールはないのか!何が本場だ、ここは日本だぞ、イタリアじゃないぞ!と、あまりにも、もっともなお怒りであります。

いやあ、椎名誠さんのキレのよい文章も手伝って、おおいに笑わせていただきました。オチも最高です。

で、ここからはワタクシの体験談。椎名さんに便乗するようですが、私も数々の「殺したい〇〇屋」に遭遇してきました。思い出すだけで腹立ち殺意がわく。そんな殺したい〇〇屋とは!

(1) 殺したい蕎麦屋

椎名誠さんのおっしゃるとおり。蕎麦屋には「殺したい」という言葉がよく似合います。私の場合は、銀座の老舗蕎麦屋でした。盛りそば850円(←けっこう高い)を注文すると、店のおばちゃんが「1枚でヨロシイですか?」と聞いてきます。え?フツーひとりが食べるそば、って1人前(1枚)でしょ?映画「ブレードランナー」じゃないんだから・・・。ほどなく出てきたそばを見て仰天しましたね。850円の盛りそばの量は「半人前」いや「1/3人前」なのです。お子様ランチかあ、つう微量です。よーするに、この店で、大人が満足するには最低2枚はオーダーせねばならない。すなわち1人前=2枚=1700円(!)。バカたれがあっ!と叫びそうになりましたね。ちなみに、怒りで舌も拒否反応をおこしたのか、蕎麦の味はイマイチでしたぜ。

(2) 殺したいステーキ屋

誰がなんと言おうと、ワタクシ、焼肉やステーキはすくなくとも表面はジュージュー熱く焼いていただきたい。しかし、東京丸の内、某ホテルビルの最上階の店。ワタクシの希望を鼻でせせら笑うかのような殺したい店でした。調理人がカウンターの内側の大鉄板で焼くステーキ。下写真の半球型カバーなんぞを使って、しかし、いつまで待たせるんだよ?つうくらい長時間じらせた挙句に、出てきたステーキがめちゃくちゃ生ぬる~い、のであります。ギャア、とわめきそうです。

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敵(店員)は、高級肉だからあえて低温でじっくり調理しました、と自慢げに反論するに違いない。しかし、ワタクシは怒りが頭を支配し、高級肉とやらの味は、まったくわかりませんでした。

(3) 殺したい焼き鳥屋

それは東京の神田にありました。古びた店構えには不吉な予兆はあったのです。メニューをみると焼き鳥(正肉)の値段がかなり高い。メニュー脇のボードには、〇〇産の地鶏のみ使い、エサに気を使い、云々と自慢話が書かれています。まあ、きっと旨いんだろ、と注文した焼き鳥をがぶりと食べ「うはあ」と思いました。肉表面が炙られている程度で、中心は生なんですね。もちろん調理ミスではなく、健康な地鶏だから生でも食える、だから、あえて軽く炙っているのでしょう。

そうゆう焼き方が好きな人もいるだろうけど、私は、火を通したほうが美味いと感じるタイプなので、店員さんに「申し訳ないが、焼き直してもらえませんか?」とお願いしました。するとどうでしょう!クソババア(と言わせてもらう)店員は、「うちの肉は生でも食える!それが一番旨いのだ!」と、お前の話など聞く耳もたん、という傲慢な態度。最後は大げんかになり、ふざけんな!バーカー!と言い放って店をあとにしたワタクシです。ああ、殺したい殺したい。

(4) 殺したい居酒屋

昨年末、仙台での出来事です。一軒目でそこそこ食べたので、二軒目で仕上げに軽く日本酒を呑むか、と国分町をさまよい日本酒の品揃えをアピールする居酒屋へ入店。そこに「殺したい」店長がいたのであります。

壁の板に書かれた日本酒をオーダーすると、店長はこう言ってきたのです、「そんな注文の仕方ではなく、好みの味を言ってくれ」。え?そこに書かれてる酒はないの?と聞くと「あるなしではなく、好みを言ってくれたら銘柄はオレが選ぶ」と上から目線で言ってくる。おい、なんだよ、それ。客が酒を選べないのかよ。

まあ、いいか。日本酒通だろうから、おとなしく従うかと気を持ち直し、「辛口だけど、しっかり濃い味がある酒を冷やで」と伝えると、アナタ、信じられますか。出てきたのは、すっかり気の抜けたような輪郭のぼんやりしたサイテー酒ですぜ。グツグツと煮えたぎる怒り気分。いや待て、ここで怒ってはいけない、と冷静を装い、酒は諦め料理でいこう。お勧め料理を店長に尋ねると、アナタ、信じられますか。お勧めは「野菜」だという。野菜ですよ、野菜。仙台なら海鮮、ほやとか牡蠣とか、あるいは牛タンとか・・・ま、ここは我慢、我慢。

勧められるままに「蒸し野菜」を注文。そしたらアナタ、信じられますか。包丁で野菜を切る店長の手つきが、どうみても、料理人のそれではなく、ふだん母親に料理を任せっぱなしにしている小学生が、昨日初めて包丁を持ちました、という体の拙い手つきなのである。かぼちゃを切るときなんて、見ているこっちが怖くて怖くて。包丁とまな板がバキーンと大きな音でぶつかるに至り、もう、どうにでもして、という感じ。

予想はついてましたが、この「蒸し野菜」の不味いこと!絶対にオレが作ったほうがまし、という極低レベル。いやあ、この店は「殺したい居酒屋」というより、「日本国民のために殺しておくべき居酒屋」と言えましょう。

いやはや、ひどい店はどこにもある!繁華街には毎夜毎夜、殺意が満ち満ちているのであります。


ハナシは変わりますが函館や唐津の名物「(朝どれの)活イカ」ってどう思います?コリコリとした食感がサイコーとかいうけど、私は全然、美味いと思わない(お好きな方、すいません)。イカの旨み、というか、味がほとんど無いもん。刺身は新鮮が一番という幻想に捕らわれてませんかね。水揚げしてから時間が経ったほうが、身が柔らかくなり味が出る素材(まさにイカ)もあるわけです。獲れたてだからって、本当に美味いと思うかね?と批判的にみてしまう。あまつさえ、うねうねと動く脚を食べて、吸盤が舌にくっつくうなんて喜んでいるヤツは、はっきりいって変態ですな。・・・と失礼を書き連ねたので、ごめんなさい、と謝って今日はお終いっ!

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宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」を再読。 [本]

札幌に住む友人Aさんが「これ、読んでみて。」と、一冊の本を貸してくれたのです。

Aさんが過去に貸してくれた本はパトリック・ジュースキントの「香水」「コントラバス」をはじめ、ワタクシのツボにはまるのが常であります。その点で、ワタクシは彼女をおおいに信頼しているのです。さて今回、Aさんからお借りした本とは。

「宮沢賢治コレクションⅠ」。え?宮沢賢治?

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なぜ今、宮沢賢治・・・。雨にもマケズ風にもマケズ。いえ、あっという間に負けている私ですけど。

本の発行日は2016年12月。お、昨年の新刊ではないか。さすが筑摩書房さん、宮沢文学をいまでもしっかりフォローするのねえ、と、よく分からん感心をしちゃうのです。

「コレクションⅠ」と銘打つからには今後、「Ⅱ」「Ⅲ」が発刊されるのでしょう。で、「Ⅰ」には、のっけから有名どころの「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」が惜しげもなく収録されているのです。

懐かしいなあ。読んだのは小学校のとき、正確に1973年。44年前(!)だ。

それほど宮沢賢治を愛していない(=世間が言うほど良いとも思っていない)ワタクシですけど、Aさんのお勧めということで読み始めました。

「風の又三郎」。そうそう、こんな話だったなあ。都会からやってきた転校生と、田舎の子供たちのふれあい。ふむふむ。(あまり食いつけない)

そして「銀河鉄道の夜」です。日本国民なら、存在は必ず知っている名作(と言われている)。でも、私は全然、覚えてませんでした。どんな話だっけ?SFファンタジーだっけ?

まあいいや、と読み進んでいくと。。。ううっ、うぐぐう。こ、これは・・・。最後の一行を読み終わったワタクシ、頭がジーンとなり、ぽろぽろ涙を流してしまいました。

銀河鉄道の夜、ってこうゆう話だったんだ。童話口調で書かれているけど子供が読んでわかるのか。いや、分かる子供もいるのだろう。でもジョバンニ(主人公)と旅をするカンパネルラや少女の言動は、大人だからこそ胸に刺さるのではないか。子供は「しあわせとは何か」なんて考えるのでしょうか(少なくとも、作品に登場する人物たちのように)。44年前のワタクシには全く分かっていなかったです。55歳の今のワタクシだからこそ「銀河鉄道の夜」で語られる言葉や行いを、ああ、そうかあ、と共感できるわけです。

燈台守のこの言葉。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」・・・うーん、泣ける。

そしてハリウッド映画の宣伝文句みたいだけど、衝撃のラスト、この破壊力はなんなのだ。ファンタジックな美しい物語を貫いていた太い芯が「自己犠牲」であり「博愛」と分かり、ポロポロと涙が出ちゃうわけです。いやあ、どっかの国の大統領に読ませたいねえ、まったく。

おっと、銀河鉄道への感想が長くなりました。しかし、この本のなかで私の大好きな作品は、なんたって「セロ弾きのゴーシュ」です。小学生の時に読んだ記憶とまさに同じでした。オーケストラ団員でいつも指揮者から怒られるヘタッピなセロ(チェロ)弾きのゴーシュ。彼が、夜中に家で練習していると、いろんな動物たちがやってくる・・・とまあ絵本にピッタリの題材だけど、なんともいえない良い感じ。良い味。これって、なんなんだろう。

コンサートが大成功した夜に、ゴーシュが空に向かってつぶやく最後の言葉。ワタクシ、またもポロポロ、涙を流してしまいました。この話じゃ泣かないだろ!と言われたって、かまうもんか。

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結論。

宮沢賢治さんは良い。あまりに有名、あまりに世間で高評価、あまりに東北観光の色が感じられ・・・で、なんとな~く天邪鬼的に再読してなかったけど、本当に素晴らしいと思いました。

やはりAさんの貸してくださる本はツボを外しません。ありがとうございました!


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