ブコウスキーのグダグダな紀行エッセイを読んで、ケルン大聖堂を回想した日。 [本]

世の中には、妙な偶然があります。前回記事(2017年11月28日)で某アマチュアオケの演奏会について書きました。シューマンの交響曲3番「ライン」を聴いて、昔ドイツ出張でライン河とケルン大聖堂へいった件を思い出したわけです。

さて妙な偶然。

記事を書いた、まさにその日の夜、読んでいた本に、著者がドイツで私と同行程、つまりケルン大聖堂へいきライン河で観光船に乗った顛末が出ていて、おぅ!と感激した次第。いや感激は大げさですね、へえ~と思った程度か。有名な観光コースだもんな。いずれにしても、ライン河の船着き場で、酷い音質と、ドでかい音量で流れていたシューマン「ライン」のテーマが再び思い出されました。その本がこれです。

チャールズ・ブコウスキー著「ブコウスキーの酔いどれ紀行」。

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ブコウスキー(ドイツ生まれのアメリカ人。1920年~94年)は、1970年代にマニアック人気を博した破滅型の作家です。死後20年たった今、パンクだ、カルトだと、もっともらしい冠が付き、既成概念と体制に反発し信念に生きたスゴイ人、みたいな位置づけのようだが、ハッキリ言って、このひと、クソ人間です(ご本人もそうおっしゃっていたが)。

重度のアル中。女好き。失礼極まりない暴言野郎。「友人にしたくないタイプ」です。

もしブコウスキーさんが今も生きていて往年の調子でブログやツイッターを始めたら、炎上どころか人種差別野郎のレッテルを貼られ作家として生きてはいけないでしょう。いや、銃で撃たれるかもしれない。日本には、「歯に衣着せぬ」という暴言を庇護する便利な言葉があり、かつエクストリームを有難がるの民族なのでカルト人気を維持できたかもね。

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前置きは以上で「酔いどれ紀行」です・・・ん、変な邦題だ。原題「Shakespeare Never Did This」=シェイクスピアは決してそれをしなかった、で良いじゃん。なんだよ、「酔いどれ」って。トム・ウエイツさんもこの変な日本語の被害者だと思う・・・あれ、また話が散らかった。

この本、58歳のブコウスキーさんが、ガールフレンド(!)と生まれ故郷のドイツ、その後フランスを訪れた際の一連の出来事を時系列的につづったもの。当時(1978年)すでに有名作家でしたから、先々で雑誌の取材を受けたり、テレビ出演をしますけど、ベロベロに酔っぱらって大失態を演じ、もう、どうしょうもないわけです。これをグダグダと言わず、なんと言えばよいのか。

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ブコウスキーさんは、ケルンで大聖堂を訪れます。ちなみに、ライン河観光は写真程度で、たぶんつまらなかったのでしょう。

ケルン大聖堂では、「幾分なりとも感動させされ」つい「物思いにふけってしまう」ブコウスキーさんが、そこで死を想うシーンがあります。渋いなあ、と思いました。好き嫌いは別としてブコウスキー節が全開。これだよネエ!と嬉しくなる。私は西洋建築に心が動かないが、ケルン大聖堂の威容にはビビりましたもんね。ブコウスキーさんならずとも「死」や「人生」を考察するにふさわしい異空間でしたね。

最後にブコウスキーさんの、ケルン大聖堂での物思いの箇所を抜粋し、今日はお終い。ちょいと長いですが以下、「ブコウスキーの酔いどれ紀行」より転記です。


・・・死に関しては、(臆病なわたしにしては)ほとんど恐れていなかった。わたしにとって死はほとんど何の意味もない。次から次へと続くひどい冗談の最後のひとつにしかすぎない。すでに死んでいる者にとっては死は何ら問題ではない。死はまたひとつの別な映画で、結構なことだった。

死は亡くなった人間となんらかの関係のある残された人間に対してさまざまな問題を引き起こすだけで、それらの問題は亡くなった人間があとに残した財産の大きさに正比例して、どんどん厄介なものになっていくのだ。どや街の浮浪者の場合なら、問題はがらくたの処理だけとなる。裕福に生まれついた者がいるとしても、みんな一文無しになってこの世を去っていく。

芸術家は死にあたってちょっとした遺臭を残し、それを不朽のものだと呼ぶ人たちもいて、当然の如く、作家の功績がすごければすごいほど、残す悪臭はひどいものとなる。

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