推理小説「ソーンダイク博士 短編全集」全3巻。国書刊行会はスゴいものを出版してくれました! [本]

2023年11月。

熱心な読書家とは到底いいいがたいワタクシ。図書館から本を月20冊借りますけど、美術や音楽の本、写真集、エッセイなどがメインで、小説にはそれほど食指が動かないのでした。が、しかし!

先般、地元図書館の「外国文学:英米作品」の棚を眺めておったら、とんでもない大発見をしたのです。そのブツがこれであります。

「ソーンダイク博士 短編全集」わおお!全3巻の、第1巻を即座に借りました。なんと嬉しいことでしょう、ルンルンルン~~(完全に舞い上がっている)。著者はイギリスのオースティン・フリーマンさん(1862~1943)。法医学者で弁護士でもあるソーンダイク博士が探偵役となって、難事件を解決する推理小説なんであります。

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ワタクシごときが解説めいたことを書くのもナンですが、19世紀末~20世紀初頭は推理小説の黎明期で、最大のヒーローはなんたってシャーロック・ホームズ。しかし天邪鬼なワタクシ、ホームズの文系的な推理法より、ソーンダイク博士の「理系的」つまり科学手法で犯人に辿り着くプロセスが好きなんであります。

ソーンダイク博士は、「科捜研の女」の沢口靖子さんのような美人女性ではないけど、身長180センチのイケメンつう設定、ようするに「出来る男はカッコイイ」ってことよねえ。ははは。

借りた本に話を戻しますと、奥付に、2020年の初版とある。つい3年前じゃん。いやはあ、発行元の国書刊行会さんは素晴らしい仕事をしてくださった。これまで一部しか読めなかったソーンダイク博士の短編を、全部、ゼンブ、ぜ~んぶ、読めるようにしてくださった。なんたる快挙、なんたる男気であろうか。パチパチ!

そして私の借りた第1巻は、推理小説の金字塔「歌う骨」(←5編収録の短編集タイトル)を掲載してるのであ~る。推理小説好きの方には説明不要と思いますけど、この「歌う骨」の何がすごいか、つうと、

世界初の倒叙(とうじょ)推理小説ということ。倒叙って何?ドジョウなら柳川鍋で・・・じゃないよ。

探偵小説って、主人公(探偵)が犯罪を捜査→結末で犯人が明らかになる、この流れが王道パターンですね。倒叙型探偵小説はその逆でして、最初から犯人が示される→探偵が登場→犯人が追い詰められる、という展開なんです。著者フリーマンさんが書いているように「犯人は誰か?」ではなく「解明はいかにしてなされたか?」に主眼が置かれているわけだ。アメリカのTVドラマ「刑事コロンボ」や日本の「古畑任三郎シリーズ」はまさしく倒叙型ですな。

本著収録の15編のうち4編が「倒叙型」で残りは「犯人捜し型」。後者には密室トリックをあつかった「アルミニウムの短剣」など力作があります。解説を含め、596頁の大部、本がでかいので扱いに多少難儀しましたが、それもあって読み切ったときの喜びはひとしおでしたなあ。

どの作品も、ソーンダイク博士による、証拠の収集と分析、それに基づく推理・仮定の確認プロセス、そして全容解明→大団円に痺れるわけです。犯行現場のささいな痕跡にも予断をせず、冷静に分析し、常人には及びもつかない帰納法的解明に至る、ま、名探偵だから当然といえば当然だけど、お見事!と溜飲が下がりますなあ。

100年以上前の小説ゆえ、科学捜査といってもたかが知れてるわけですが、そのクラシカルな趣きがむしろプラスになっている、ここを強調したいのあります。

さあて、第2巻、第3巻も図書館で借りるぞお~と気合が入るワタクシ(買わずに借りる、つうのがセコイ感じもするけどね)。

ちなみに私は、探偵小説は20世紀初頭の作品が好みでして、最近のものはほとんど読みません。せいぜい1970年までに書かれたものかなあ。国書刊行会さんはそんなワタクシの想いを知ってか知らずか、ジャック・フットレルの「思考機械」シリーズ、バロネス・オルティの「隅の老人」シリーズも、ドドーンと分厚い本で出版してくれました。ネット検索したら纏め売りしてるのを見つけましたもん(下写真)。

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かように、推理小説のマイブームが到来中なのです。自宅2階の開かずの荷物部屋から、何冊か発掘してくるとするか!ふふふ。。。

まずは、エラリー・クイーンの悲劇三部作(X、Y、Z)。チェスタトンのブラウン神父シリーズ。アイザック・アシモフの給仕ヘンリーを主人公にした「黒後家蜘蛛の会」シリーズ。日本では、島田荘司さんの御手洗 潔(みたらい きよし)シリーズ・・・。そういや、クロフツの「樽」もいいな。とくれば同じ作者の倒叙名作「クロイドン発12:30」かな~~。こんなこと考えてワクワクしているオレって、どうなんでしょうなあ。きっと幸せ者なのでしょう。ハッピ~のりピ~~(←禁句でしたか)。

本日は以上! 

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村上春樹さん著「ねじまき鳥クロニクル」(全3巻)を再読したハナシ。 [本]

2021年10月。

9月末から始まった全国出張旅が、絶賛継続中であります。一昨日は山口県の徳山でした。このあとは福島県→北海道→岡山県→山形県と罰ゲーム的に旅は続くのでした、ふうう・・・。

さて旅のお供といえば「本」でしょう。昨今、電車内で本を読んでる方は少なく、スマホをいじるパターンがほとんど。俺は電子書籍だぜ、ってことかもしらんけど、私は昔ながらの「紙」の本が好きなのです。今月ワタクシが新幹線や特急電車の移動時間に読破した作品はこちらです。

村上春樹さん著「ねじまき鳥クロニクル」全3巻です。

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ネット情報によれば最終巻「鳥刺し男編」の発売はいまから26年前の1995年。ワタクシは20年ほど前に、間違いなくこの作品を読んだのですが驚いたことに、

内容をほとんど覚えていない、のでした。アホ自慢みたいでナンですが、村上さんの他作品「ノルウェイの森」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」も、その頃、読んでいるのに、やっぱり

内容をほとんど覚えていない、のですね・・・って、その話は良いとして。

今回「ねじまき鳥クロニクル」を再読して、いやあ驚きました。ものすごいインパクトでした。頭にガツン!ときました(ラストシーンの闘いではないですよ)。20年前に読んだとき、30代のワタクシはおそらく、井戸に閉じ込められたり、生きたまま皮を剥がれたり、バットで殴られたり、といった暴力シーンの「痛み」「恐怖」が先にたって、肝心の物語に対しては「???」となるばかりで、頭に入ってこなかったのでしょう。

ところがワタクシも歳をとり、それなり人生の場数を踏んだためでしょう、村上春樹さんのリズミカルな文章とツボにはまる比喩に素直に脳が反応しました。サクサクと読み進んで、あの入り組んだ物語を楽しく堪能いたしました。最終巻を読み終わったときには「続きをもっと読みたい!」と本気で願い、それがかなわぬことに心底、がっかりしましたね。

以下、ワタクシごときが小説のあらすじを書いてもしょうがないので、違うことを書きます。

映画好きのワタクシ、本作に限らず小説を読むと、つい、あの映画のテーマに通じる・・・と連想してしまう。「ねじまき鳥クロニクル」だとパラレル・ワールドや脳内世界の映画を連想する方はいるでしょう。変化球として、M・ナイト・シャマラン監督「サイン」・・・ってバットつながりか!あるいは「ザ・リング」やっぱり井戸は怖いもんね・・・そっちかよ、とボケはこのへんにして。

ワタクシは、もうこれで決まり!と思うのです。

ヴィム・ヴェンダース監督「パリ、テキサス」、ワタクシが溺愛する映画。ナスターシャ・キンスキーさんの美しさときたら!

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忽然と姿を消した妻を探し求め、主人公がさまよう、なんてまさに「ねじまき鳥クロニクル」そのもの、ではないですか!そして二人が壁を隔てて会話する映画のラストシーンは、「ねじまき鳥」ではコンピュータ画面越しの文字でのやりとりですよね。うーん、なんていい指摘をするのだ、今日のオレ。

春樹さん小説にはまったワタクシ、今週は「スプートニクの恋人」をお供に、出張先の福島県へ向かうこととしましょう。本日は以上です。チャオー。

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「〆切(締め切り)本」の悶絶っぷりに、小さく自分を重ね合わせるワタクシ。 [本]

2020年7月。

唐突ですが(つうか、ブログ記事は、だいたい唐突に始まるけどね)、ワタクシ、自分が約束したシゴトの「期限」「日限」をかなり、しっかり守る、意外にご立派なサラリーマンなのであります(自慢)・・・と書くと、「そんなん当たり前だろうがあっ。金をもらっている以上、日限を守るのは学生アルバイトだってフツーにするわっ」と、即ツッコミされそうですが、あはあ、アナタ、まだ世間知らずのシロウトさんですな。現実は決してそう簡単ではございません。

世の中で、シゴトに関する約束がいかに簡単に無視され反故にされ踏みにじられておるか。枚挙にいとまなし、つうか、むしろ約束を守るほうが稀少?と思える体たらく。それが昨今の日本の真の姿なんであります。

たとえばの話。ワタクシ、5月に某メーカに対してある部品の見積依頼をしました。7月1日までに見積回答をくださいね、と伝え、相手からも「了解です!」と(そのときは)元気な返事が来る。しかるに、その後、いっこうに相手からの連絡はなく、メールしても返信がなく、不安に思ったワタクシが、日限1週間前(6月26日)に相手メーカの営業担当者に電話を入れると、驚いたことに、です。そやつの反応は、

あ~、あの見積すかあ、覚えてます、はい、忘れてませんって。でも~コロナとかあ、いろいろあって、正直、作業が全然進んでないす。え?7月1日が約束した日限?まじすか、いや、でも無理だな~。だってコロナとかあ、え?それじゃ困るって?いや、困るって言われても~。なにせコロナ、ですから。うち悪くないし。つうか、どうしても7月1日に見積ほしかったら、アナタ、もっとガンガン攻めてこないと。1週間前に電話されてもねえ・・・。え?7月1日って、お前が約束しただろうって?いや、すいません、すいません、でもぅ、正直ベース、7月の見積回答は、無理、ですわ。8月初旬、いや、中旬になりますねえ。すいませんねえ、はい。

・・・って、この会話後、殺す、こいつ。と思うのはワタクシだけではあるまい。

皆さんがどんな仕事をされているかは知りませんがね。こんなもんです、今どき。結婚式で永遠の愛を「誓った」はずの男女が、1か月後にツラッと離婚する例を引合いに出すまでもなく、約束とは、その時点での「希望」にすぎず、後々に生じた状況・心理・感情の変化によって変更しうる、というのが「約束を守らぬクソ人間たち」の言い分なのである。

ありていにいえば、「忙しかった」とさえ言えば、約束など守らなくても許される、と勝手に決めてる自己中心野郎、つうことです。「日限に遅れそうなら、せめて早めにそのことを連絡しろ」つう当方の思いなど、通じるわけもなく、ワタクシの眼前には、虚空の闇が広がるばかり。

われわれは希望に従って約束し、怖気に従って約束を果たす (ロシュフコー)

もはや「怖気」すら持たない、ある意味、精神力頑強な輩(ただのクソですがね)のなんと多いことよ。。。

というのが、本日の前置きです。って、前置き、長っ!

唐突ですが(←本日2回目)、今年一番、ワタクシのツボにはまった本を紹介いたします。

タイトルは、〆切(締め切り)本、であります。

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本の帯に「作家としめきり。悶絶と歓喜の94篇」とありますように、明治の文豪から、きょうびの人気作家、漫画家にいたるまで「締め切りに追われる人たち」の苦悩?を、エッセイ、手紙、実録レポートなどであぶりだそうという好企画なのであります。ちなみに、好評だったのか、第2弾も出ていて、ワタクシは両方まとめて読みました。

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夏目漱石、谷崎潤一郎、森鴎外、川端康成、太宰治、島崎藤村、志賀直哉、内田百閒、稲垣足穂、坂口安吾、松本清張、横溝正史、手塚治虫、高橋留美子、藤子不二雄、水木しげる、澁澤龍彦、椎名誠、町田康、赤瀬川原平、村上春樹・・・そうそうたるこれらの面々のほかにも、登場人物は豊富で、しめきりネタが満載であります。

ホテルに缶詰めにされ、日限を大幅に過ぎても、原稿用紙に一行も書きだせない作家。その悶絶と苦悩・・・ときくとダーク雰囲気を予想するでしょうけど、ヒトゴトだからでしょう、かなり笑えますよ、楽しめますよ。

圧巻なのは、野坂昭如さん。編集者からの矢のような原稿催促に、野坂さん、「逃亡」して行方不明になるんですね。逃げる野坂さんを追いつめ、ついに見つけ出す編集者たちの執念の様は、刑事ドラマそのものであります(それを小説にしてはどうか?)。

いっぽう、真逆のすごさと言えば、ワタクシが愛する吉村昭さんです。小説作風そのまま、きっちり律儀。一度として原稿の締め切りに遅れたことがない、という超ストイックな自己管理のお方。そういえば、この本には登場しませんが、辻邦生さんも原稿は日限「前」に必ず出版社に送るとのハナシでしたなあ。

以上で、前置き「その2」が終わりです。って、まだ前置きかよ!

ここからは自分のハナシ。8月開催の某学会の講演論文作成のため、、ワタクシ、5月のGWに必死に系統解析をやっておったわけです。(当時のブログ記事は→ここクリック)。ワタクシが必死だったのは、学会事務局への原稿提出日限(締め切り)が、5月中旬だったから、です。ところが、その後、コロナの影響で会場発表が中止となり、論文受付けのみに変更され、それに伴い、論文締め切り日が、5月中旬から、6月22日へと、1か月ほど延びたのですね。

これが良くなかったんだなあ。

日限が近いので頑張る、って事あるでしょう。ワタクシの場合、GWに、発表の「肝」である解析を終え、あとは論文の「文章、図表」を書くのみ・・・登山でいえば8合目まで到達していたのです。しかし、締め切り日が1か月以上も延期になったため、なんつうんですか、緊張が切れた、つうか、やる気が失せた、つうか、堕落した精神状態に陥ったのであります。

しかし締め切りは延びただけであって、着実にやってくる。6月22日が近づいてくる。参りました。お忘れかもしれませんが、冒頭記載したようにワタクシ、「日限を守る」プライドはあるので、やらねばならん!とアタマで思うのですが、一度切れた緊張を取り戻せず、どうしても論文作成作業に手がつかないまま、日が経つ、日限が近づく。結果、イライラするう。身悶えするう。前出の「約束破るなど当たり前」と思えるクソ野郎が、心底、羨ましかったなあ。

結局どうしたか、つうと、意を決し、6月13日に自らを密室に「缶詰」にし、無心(?)で論文の文章と図表の作成に特化、なんとか苦境を乗り越えたのでありますなあ。めでたし、めでたし。

で、話はメビウスの輪のごとく、あるいは、西城秀樹さんの歌う「ブーメラン」のように戻り、「〆切本」です。この中に、東京大学の松尾豊教授の論文調エッセイ(分析?)が収録されており、そのタイトルは

なぜ私たちはいつも締め切りに追われるのか Why Are We Researchers Always under Deadlines?」。

冒頭から笑えました。まさに今回のワタクシじゃないの。理系研究者ならだれしもツボにはまるでしょう。最後にその箇所を紹介し、だらけた長いブログ記事を終わります。ところで、以下の松尾先生の「問い」に、あなたはどう答えますかね?ふふふ。

Summary 研究者はいつも締め切りに追われている。余裕をもって早くやらないといけないのは分かっている。毎回反省するのに、今回もまた締め切りぎりぎりになる。なぜできないのだろうか?我々はあほなのだろうか?

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ルゴネスの短編小説 「火の雨」。唐突で不条理な世界の終わりとは・・・  [本]

2020年4月30日(木)。

新型ウイルスによる外出自粛で難儀な点といえば、読む本が無くなることです。本屋や図書館へ行く行為は「不要不急」だろうと控えてしまうわけで、そもそも、図書館は、すでに1か月以上も休館しておりますしね・・・。

てなわけで本日。

自宅2階の荷物部屋で開かずの段ボール箱(GWに廃棄予定だった)から、古びた数冊の本を発掘しました。20年も前に読んだ小説なら内容を忘れていて、新鮮に再読できるだろう・・・と思いきや、当時のワタクシ、今とは違って記憶力が良かったのか、ストーリーやオチをしっかり覚えている始末。。。さすがにアイザック・アシモフ著「黒後家蜘蛛の会」は第5巻ともなると、あまりにトホホな内容ゆえか、まったくオチ(犯人 and/or トリック)を覚えておりませなんだ・・・。

さて、現在、全世界で問題となっているウイルス禍を思わせる、重たい短編小説を再読しました。正確に言うと、ウイルスではなく、別要因による世界の末路が描かれております。

「ラテン・アメリカ怪談集」(河出文庫、1990年)に収録の「火の雨」です。

作者はレオポルド・ルゴネス(1874~1936)というアルゼンチンの詩人・作家。南米の文筆家といえば、ガルシア・マルケスと、オクタビオ・パスしか思い浮かばないワタクシ、ルゴネスさんのお名前は本作品で知るのみ、であります。

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この小説。ページ数はたったの15頁ですが、そこに描かれるのは、あまりに理不尽な世界の終わりです。理由も分からず対策も打てぬまま、人類は、世界は、滅んでいきます。淡々とした筆致ながら、実際に現場を見たかのような終末絵図に暗たんたる気持ちになります。

もったいつけてもしょうがないですね。小説のなかで、いったい何が起きたのか?

タイトルどおり、火の雨が降るんですね。空襲や爆弾ではなく、平和なすばらしい天気の日に、なんの前触れもなく真っ赤に焼けた銅のつぶが、空から降ってくるんです。

最初は空を注視しないと気づかないくらい少ないが、やがて数を増し、燃える銅のつぶは家屋の屋根に穴をあけ、体に当たった人間は火傷を負う・・・しかし、それが止んで、明るい空がふたたび広がると、ゲンキンなもので人々はホッと安堵し、すっかり平和が戻ったような気になります。

そしてその翌日・・・。今度は途切れることなく、大量の燃える銅の雨が、町に降り注ぐのです。そのくだりを以下、抜粋。

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町は身の毛もよだつような光景を呈した。家を焼け出された人々は怯えて通りや野原に逃げ、そこで無惨にも焼かれていった。悶え苦しみ、絶叫し、泣き叫び、様々な断末魔の声を上げた。人間の声ほど凄いものはない。建物が崩壊し、いろいろな什器(じゅうき)が燃え上がったが、なによりも、大勢の人間が焼け焦げて、この天変地異に地獄の悪臭の責め苦が付け加えられた。(田尻陽一訳)

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小説の主人公は、地下のワイン蔵に避難しますが、圧倒的な火の雨の前に、もはや助かる見込みはないことを悟り服毒自殺を決意する・・・というシーンで物語は終わります。絶望的なラスト・・・どうするのよ。

それにしても、なんという不条理でしょう!突然、空から降ってきた銅のつぶ、火の雨が、平和な日常を一変させ、たった数日で世界を消し去る・・・神の裁きか、自然現象か?小説に分析めいた記述は何もなく、無力な人々の姿があるばかり。いやあ、理屈を超えたストレートな怖さで、ブルッと震えまちゃいました。

こういうご時世ゆえ、ついつい猛威を振るうコロナウイルスを連想するワタクシ。現実は、この小説のような悲惨な結末にならないと信じてはいますが・・・と、話が暗くなったところで今日はお終いっ。

すいません、書き忘れました。「火の雨」の作者ルゴネスさんは、1936年、服毒自殺したそうです。小説の主人公は、達観して死を選びますが、ルゴネスさんはどうだったのでしょう・・・。

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山田風太郎さんのエッセイ集「人間万事 嘘ばっかり」が、ツボにはまりまくるハナシ。 [本]

2019年8月31日。8月もついに最後の日を迎え、涼しくなるかと思いきや、いやはや関東の暑さときたらもう・・・。

さて、2週間の九州出張中、私が帯同して読んでいた本はこれでした。

山田風太郎さんのエッセイ集「人間万事 嘘ばっかり」。いやあ、楽しかった!

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山田風太郎さん(1922年~2001年)は昭和を代表する娯楽小説作家です。奇想天外、といえば聞こえは良いが、荒唐無稽とさえいえるトリックやギミックを駆使したミステリ、妖術・忍術小説を多産した、いろいろな意味でスゴイ方であります。2010年からは功績をたたえた「山田風太郎賞」が設立されたそうで、ワタクシが愛する佐藤正午さんの長編小説「鳩の撃退法」が受賞したりもしてますな。

ここまで説明しといてナンですが、ワタクシ、御大の小説は(すべてを読んだわけではないが)、ちょっと苦手で、あのケレン味がどうも肌に合わない。いっぽうエッセイについては手放しで「好き・好き・大好き!」と騒ぎ立てたい大ファンであります。エッセイが、私のツボにはまる故人TOP3は吉村昭さん、内田百閒さん、そして山田風太郎御大なのであります、はいっ。

で、今回いっきい読破したエッセイ集「人間万事 嘘ばっかり」のハナシ。

御大が、トイレで大〇を出したあと、拭いた紙ではなく、メガネを便器に放り込んだ失敗談は、ボケ味といい悲哀感といい格別でした。たいへんにヨロシイですなあ。

いっぽう、「私の発想法」というエッセイでは人気小説「忍法帖」シリーズに登場する奇抜なアイディアが、どこから生まれたのかを語っておられます。いわく「発想の最大原動力は原稿の締め切りである」。うはあ、なんという潔いお言葉だ。「約束した以上は書かなければならない。その切迫感だけで、ほかにはなんのたねもしかけもなく、アイディアがころがり出してくるのである。」・・・うーーん、たしかに人間つうのは外部からの圧力や強制があってこそ、創造力がフル稼働するものかもしれませんな。自発的、などとカッコをつけてちゃいかん。あ、来週金曜が締め切りの投稿論文の件を思い出してしまった。いやだなあ。。。

ちなみに村上春樹さんの昔のエッセイ(30年以上前?)に「締め切りのある人生は速く流れる」というアメリカのどなたかのコトバが引用されていて、ふーん、なるほど、と思ったな。って、なんのこっちゃ。

さて、今回読んだ山田御大のエッセイのなかから、一番ツボにはまった文章を抜粋して今日は終わります。御大同様、ワタクシも、「死」に対して結構な関心があり、この歳(57歳)になると、それは他人の死ではなく、自分自身の死を意味するわけで、御大の死生観にひじょうなシンパシーを覚えるのですね(それがツボにはまる理由かな)。

==以下、エッセイ「新年の大決心」(1972年)より抜粋==

栄養をとれという。(その一方で)美食はいかんという。

日光浴をしろという。(その一方で)日光は皮膚を老化させるという。

規則正しい生活をしろという。(その一方で)自由自在こそ長生きの秘訣だという。

(中略)何を信じて食い、何を信じて動いていいのか見当がつかん。

そこで考える。----

何も信じちゃいかん。ただじぶんを信じろ。じぶんの好きなように、欲するままに、何でもやれ。

食いたいものを食いたいときに食い、やりたいことをやりたいだけやって---死ね。それが人生の達人というものだ。

(中略)そうだれもかれもが人迷惑をかまわず、やりたいことをやったら世の中はメチャクチャになるといわれそうだが、なに、大丈夫だ。そう思うだけで、何もやれない人間がこの世の99%だからである。

げんにこんなことを言っている僕自身がその一人なのだから。---が、これではいかん。

やった奴が勝ちだ。やりたいことをやれ。

====抜粋終わり====

よおし、こうなったら、やりたいことやるぞお~~!・・・って、いったいオレ、何をやりたいのかな。ま、いいか。とりあえず明日は、焼鳥を食べながら酒でも呑もう。わははは。

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内田百閒著「第二阿房列車」「第三阿房列車」を読んで、新潟への無意味旅行を思い立った日。 [本]

2019年6月。

札幌に行くとほぼ必ず立ち寄る古本屋さんに、2週間前、北海道出張のさい顔を出しました。学生時代から伺っているので通い始めて38年!うはあ、どおりでオレも歳をとるわけだ。。。

店内で5分ほど本棚を眺め、お、と声が出たワタクシ。ロックオンした物件は、

内田百閒(うちだひゃっけん)先生の名著「阿房列車」シリーズ全3冊、新潮文庫版であります。

3冊で700円つう美味しい値段ですが、ワタクシ、一冊目の「第一阿房列車」はすでに保有しております。そこで古本屋の方に「1冊目は要らないので、2冊目と3冊目だけ売ってくれません?」とダメ元で伺ったところ、38年通った実績がモノをいったか、ご快諾いただき、それも2冊で450円つう安さ!さすがは札幌、ワタクシの出身地だけあって人情に溢れております(ひいきの引き倒し、ってやつだね)。

入手した2冊、「第二阿房列車」「第三阿房列車」をホテルで読み移動中に読み、一気呵成に読破。結果、ワタクシの脳内には無意味旅行への激しい欲求が芽生えたのであります。

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おっと悪い癖が出ました。話を先走りすぎですね。

まず内田百閒さんを簡単に説明せねばなりません。1889年生まれ、1971年に82歳で逝去された作家・随筆家であります。夏目漱石の弟子で、芥川龍之介に慕われた、明治・大正・昭和を生きぬいた気骨のオジサンであります。東京大学独文科を卒業し、陸軍士官学校教授、法政大学教授・・・と経歴もすごいが、口をへの字に曲げた、ヘンクツおやじを絵に描いたようなご面相もすごい。

有名作品として幻想的な短編種「冥途」や、映画「ツィゴイネルワイゼン」の原作「サラサーテの盤」などがあり、一種独特の不可解さ気味悪さが、ワタクシ、大好きなのであります。本ブログで感想も書かせていただきました(「冥途」は→記事ここ、「サラサーテの盤」は→記事ここ)。

で、今回の「阿房列車」シリーズであります。昭和20年代に書かれたもので名随筆家(いまでいう名エッセイスト)でもあった百閒さんの魅力満載の、愛すべき脱力紀行文なのです。なぜ、脱力か、というと、

この書は、百閒センセイが子分(?)のヒマラヤ山系(本名は平山三郎さん)を従え、国鉄(当時)の列車で、日本全国津々浦々を旅する記録なのですが、百閒センセイ、なんと、どの地にも、用事もなければ、目的もないのです。

つまり、無目的の旅、なのです。

新幹線のなかった昭和20年代(1950年代)ゆえ、東京~九州の移動には特急電車で30時間くらいかかります。それだけの時間を費やしたなら、旅先で「観光する」「温泉に入る」「名物を食べる」とか、なんかやることがあるでしょう?

しかし!しつこいようですが百閒センセイ、用事も目的もないので旅先(の宿)でヒマを持て余し、「しょうがない、寝るか」てなグダグダなノリなのです。強いて言えば楽しみは、移動中に呑む酒、宿で呑む酒くらいでしょうか。そもそも地方の名所、名物、名産品に興味ゼロの御仁であり、それら絶好のエッセイネタも仕入れず「阿房列車」なる旅エッセイを書きあげてしまう、その筆力が怖いですなあ。

要するに、百閒センセイは、いまでいう「乗り鉄」なんですナ。旅先に行くことが目的ではなく、列車に乗ること自体が目的であり、むしょうに楽しいんですねえ。ま、その気持ちも分からんでもない。分からんでもないが例えば「雪中新潟阿房列車」には、こんな記述があります。

=== 以下、抜粋 ===

今度新潟に行ってみようか知らと思い立ったのは、勿論(もちろん)用事などある筈はなく、新潟に格別の興味もないし、その他何の他意あるわけではないが、あっちのほうは雪が降って、積もっているというので、そうすると、どう云うことになっていると云うのか、それを一寸(ちょっと)見て見たいと思う。

=== 抜粋終わり ===

こらああっ!と、私はいま、新潟県民に代わって怒ったのであります。「(新潟に)用事などある筈はなく、新潟に格別の興味もないし・・・」って、そこまで言わなくていいだろうがあっ!いまの世なら、この記述で大炎上ですよ、百閒センセイ。

とにもかくにも、好きなものは好き、ってことで、百閒センセイは無目的な列車旅を楽しむ、ワタクシは、センセイが残したエッセイを楽しむ、と万事は丸く収まりましたね。

さて、ワタクシ、「阿房列車」を集中的に読んだせいで、百閒センセイに感化され(毒にあたった?)、いま無目的旅行への欲求が異常に高まっているのであります。出張で日本全国に出かけるワタクシですが、当然そこに「シゴト」という目的があり純粋な意味での旅ではない。これはいかん!

てなわけで、決意しました、無目的に新潟に行くぞ!と。

なぜ新潟かというと、百閒センセイも行ってるし、新潟は好きだし、酒が美味いし、と理由は以上ですが、あれ、「酒を呑む」という目的が顔を出してしまった。まあ、いいか。旅のきっかけを、内田百閒センセイから、吉田健一センセイに切り替えれば、「旅で呑むぞ~」と胸を張れるわ、バッチリじゃん。って、つじつま合わせて今日はお終いっ。チャオー。

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太田忠司さん著「奇談蒐集家」「レストア」に、小説を読む楽しさを再認識した日。 [本]

2019年5月。

毎月20冊の本を図書館から借りて読むのですが、今月は珍しく(?)どの本も大当たりでした。幸せな1か月でしたねえ。博覧強記のビブリオフィリア、荒俣宏御大は「本は借りては読んではいけない。自腹で買うからこそ真剣に読むものだ」とおっしゃいますけど、私だって税金を払っているわけで、公共施設は有効活用せねばね。。。

で、今日紹介する本は、借りた20冊のうちの2冊。久しぶりに「小説を読む楽しさ」を素直に実感させてくれました。

1959年生まれの推理作家、太田忠司(おおた ただし)さんの「奇談蒐集家(きだんしゅうしゅうか)」と「レストア」であります。小難しい表現をひねくる純文学系小説とは大違いで、太田さんの作品は良い意味で読みやすく、かつ、ぐいぐい読み手に頁をめくらせる物語の推進力が素晴らしいのであります。

まずは、読後に「やられた!」と唸った連作ミステリー「奇談蒐集家」であります。

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自分のコトバで内容をまとめるのがおっくうなワタクシ、手抜きでamazonから紹介文をコピペさせていただきます。失礼。

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求む奇談、高額報酬進呈(ただし審査あり)。新聞の募集広告を目にして酒場に訪れる老若男女が、奇談蒐集家を名乗る恵美酒(えびす)と助手の氷坂(ひさか)に怪奇に満ちた体験談を披露する。シャンソン歌手がパリで出会った、ひとの運命を予見できる本物の魔術師。少女の死体と入れ替わりに姿を消した魔人。数々の奇談に喜ぶ恵美酒だが、氷坂によって謎は見事なまでに解き明かされる! 安楽椅子探偵の推理が冴える連作短編集。

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ミステリー好きとは到底いえないワタクシですが、本作はよくできているなあ、と感心した次第。奇談の数々に読み手が納得できる(=トリックを見抜けない)からこそ、探偵役の氷坂による理路整然とした謎解きシーンが光るわけです。ボーッと生きてきたワタクシは、恥ずかしながら、ひとつとして見抜くことが出来ませんでした。つまり氷坂に完敗であります。ハハーッ。

しかしこの作品のココロ憎い点は、連作の最後の一編に大きなオチがあること。名探偵役の氷坂が、いくら腑に落ちる理屈を述べたところで、それは後だしジャンケンであって、真相かどうかは分からない。あくまで「ひとつの推理」に過ぎないわけです。そのことは江戸川乱歩センセイの名作「陰獣」を読まずとも当然でしょう。そんな読者の声に応えるかのように、連作最後の一編はそれまでとテイストがガラッと異なります。結果、見事な大団円をつくっているんですねえ。いやあ気持ち良いくらい、やられたぜえ!

ちなみに安楽椅子探偵ミステリといえば、ワタクシ、あまりに古典的ながら名作「隅の老人」シリーズを思い出します。しかし「奇談蒐集家」のテイストに近いのは、アイザック・アシモフ著「黒後家蜘蛛の会」シリーズでしょうかね。某クラブの会合でゲストたちが披露する謎めいたハナシに、会員たちがあれこれと勝手な推理をしますが、最後に、執事が明快に謎を解き明かして会員たちをギャフンと言わせる。惜しむらくは、「黒後家蜘蛛」シリーズはあまりに続きすぎて(3巻以上)、あとになるほど物語にキレが無くなり、惰性感が漂っていること。「奇談蒐集家」のようにバシッと最後を決めてくれたら・・・と故アシモフさんに失礼を言ってはいけませんな。

さてさて、太田忠司さんの著作で、紹介したいもう一冊は、これ。

レストア、オルゴール修復師・雪永鋼(はがね)の事件簿(カルテ)」です。

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こちらも連作ミステリですが「奇談蒐集家」とは趣が異なります。複数エピソードをからめた長編小説とも言えます。推理作家は、主人公やシチュエーション設定に苦労されると思いますが、本作の主人公=探偵役の雪永鋼は凄腕のオルゴール修復師(レストア)ながら、「うつ病」を抱えています。クリニックから処方される薬が切れると、生きていけないほどに切迫しています。精神に問題を抱えた主人公は小説や映画によく登場しますが、社会活動に支障を生じるほどではありません。というか主人公には探偵として「活躍」してもらわねばならない以上、人と会うこともできない人物では、物語が成り立ちません。著者の太田忠司さんは、そこを逆手にとり、雪永が望まない人間模様に巻き込まれるコラテラル展開を操っていくわけです。

そこに、アンティーク・オルゴールにまつわるアイテムがウンチク的にフレーバーされ、飼い犬ステラが良い味を出し、さらに最初の事件(?)で関わった女性とのロマンスも加わります。またぞろamazonからの紹介文をコピペします。

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鋼は、心の痛みを抱えながら、愛犬・ステラとともにひっそりとオルゴールを修復する日々を送っていた―ある女性と出会うまでは。彼女・飯村睦月が持ち込んだオルゴールからは、彼女の父親が聴いていたのとはまったく違う曲が流れるというのだが…。持ち主の想いが込められたオルゴールとともに持ち込まれる奇妙な“謎”。そして鋼を苦しめる“過去”には一体なにが?鋼と睦月を待つ運命は―。アンティークオルゴールの音色のように、哀しくて優しい物語。

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いずれにしても読み進むうち切ない気持ちになり、主人公雪永鋼と、彼を慕う女性睦月には、なんとか幸せになって欲しい!頑張れ、鋼君!と応援したくなること必至であります。この作品、ミステリーをからめた恋愛小説なのですなあ。なんとロマンチックであろうか。

おっと、すっかり話が長くなありました。調子に乗って、小説のネタバレをしないううちに今日はお終いにしましょう!チャオー!

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永井荷風の代表作「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」。東京の東地域をバカにしまくりがスゴい。 [本]

2019年4月。

このところワタクシ、日本の近代小説(明治~昭和初期)にはまってます。田山花袋「蒲団」を再読しウゲエ~ッと滅入ってみたり、泉鏡花「高野聖」のくどい文章にギャフンとなったり、島崎藤村「破戒」を読んで「暗っ・・・」とつぶやいたり、正宗白鳥の・・・いや、これ以上はやめましょう。

そういえば、高校時代、国語のテストで、島崎藤村(しまざき とうそん)が正解の設問に「藤村藤村(ふじむら とうそん)」と誤答したヤツがいたっけ。間違いとはいえ、藤村藤村、カッコいいじゃん。トーソン・トーソン、なんて、まるで、デンジャー・デンジャー、だぜえ!テッド・ポーリーも大喜びだあ・・・って、ヘヴィメタルのマニアック小ネタかよ!?

いや、今日はそんなことを書きたいのではなかった。

永井荷風センセイ(1879~1959)の小説「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」についてです。

荷風センセイは晩年13年間、ワタクシが在住する千葉県市川市に居を構えてます。この地が登場する小説も書かれており、市川市民として親近感がわくのですな。

さて、「濹東綺譚」は昭和12年(1937年)、つまり戦前の作品。新聞連載で人気を博し、いまや永井荷風の代表作、いや日本近代小説の名作のひとつ、とさえ言われてます。今回、35年ぶりに再読したワタクシです。

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しかし!

この作品を読んだ方は、本作を「名作」だと思うんでしょうか?

たしかに、往時の東京の様子や、そこに生きる人たちが活写されてはいる。荷風センセイにしか書けない古典的かつ流麗な文章には日本文学の底力を感じます。

しかし、ですよ、このハナシって、50歳を過ぎた初老の小説家が玉ノ井(現在の墨田区東向島)で偶然知り合った20代の娼婦、お雪にゾッコンになる、要するに、エロ話、なんであります。美辞麗句を並べようと、エロはエロじゃん、と言いたい。

ワタクシ、娼婦と老人の刹那愛のハナシがいかん、とは思いません。問題は、エロならエロでバシッと決めてほしい、つうこと。「愛のコリーダ」路線は無理として、谷崎潤一郎の「卍(まんじ)」のノリは欲しい、つうことで

煮え切らなさ、中途半端さが、(新聞連載だから仕方ないとしても)いかんぞ!と思う次第。当然ながら現代人が期待する「失楽園」的な濡れ場シーンは皆無。検閲があった時代ゆえ、書かなかったんでしょうけど、そうした時代差をおもんばかっても、読後のモヤモヤ感はぬぐいがたい。これをして、名作と呼ぶもんかねえ~と、どこまでも納得できないワタクシ。

ちなみに、25年ほど前、新藤兼人監督が本作を映画化しました。津川雅彦主演、娼婦お雪は新人女優の墨田ユキという配役。ワタクシ、当時、この映画をみて、なるほどそうくるかあ、と思いましたね。映画ですのでエロシーンはそれなりしっかりあります(納得)。その点は別として、映画の骨子は、お雪の純愛にまつわる「悲哀」なんです。

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いっぽう小説「濹東綺譚」から読み取れるのは、娼婦の悲哀なんぞではなく、お雪が娼婦でありながら、そのことをクヨクヨするでなく、現実に順応してカラッと生きる「したたかさ、逞しさ」なんですね。

永井荷風の、別の代表作「つゆのあとさき」も然りです。主人公君江の、男運の悪さや悲運より、彼女のヴァイタリティや苦境にめげない強さが小説を光らせているわけです。この視線こそが永井ブンガクのツボ、と思う次第。

何を言いたいかというと、荷風センセイが本作を1930年代に書いたのは早すぎた、ということ。多様な価値観が許容される現代(戦後という意味)ならば、同じ素材で、さらに深い展開ができたのではないか・・・と。そうしたら、ワタクシが今感じているモヤモヤ感は、多少なりとも薄まったのでは。

いや待てよ、逆かもねえ。制約の多い時代だからこそ成立した小説だったのか・・・あれえ、自分の意見がブレブレだ。なんだか分からなくなったけど、ま、いいか(簡単に思考を放棄)。

最後にひとつ。

本作は、題名に「濹東」を冠しているだけあって、東京の、隅田川から東エリアが舞台です。いまだったらネットで炎上するぞ、つうくらいこの界隈をディスっているくだりがあるのです。主人公(小説家)は、その地域にいくとき、なんと変装するんですよね。フツウの服は目立つ(!)ので、地元に合わせた「みすぼらしい服装」に着替える、という。以下は抜粋。

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古ズボンに古下駄をはき、それに古手拭をさがしだして鉢巻の巻方も至極不意気(ぶいき)にすれば、南は砂町、北は千住から葛西(かさい)金町辺りまで行こうとも、道行く人から振り返って顔を見られる気遣いはない。(中略)安心して路地へでも、裏道へでも勝手に入り込むことができる。この不様(ぶざま)な身なりは・・・(後略)

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どうなのよ、これ。80年前に書かれた小説とはいえ、江東区、江戸川区、葛飾区の皆さま、ここまでボロクソに言われて、許しておけますか!どうよ、どうよ!

と思ったら、昔読んだ谷崎潤一郎の犯罪小説に、さらなる特定地域ディス記述があったのを思い出しました。

妻を殺そうと計画する男が「大森か蒲田に引っ越す」という記述。妻の体を弱らせるのが彼の狙いなのですが、なぜ引っ越すかというと、「その地域は水が悪い(=汚い、不衛生)」なので「病弱な人間には命取りになる」・・・みたいな、おいおい、住んでいる人もいるんだぞお!とツッコミ気分MAX。というわけで、今日のまとめは、

文豪だったら、何を書いてもいいんかあ!

以上です。チャオー。

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内田百閒の短編集「冥途・旅順入城式」にゾーッとしてしまう日。 [本]

2019年4月。

春の陽気のなか、気色悪いネタでナンですが、内田百閒(うちだ ひゃっけん、1889~1971)さんの不気味な短編集「冥途・旅順入城式」(岩波文庫)について書きます。

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本の話の前に、ワタクシの体験談をチョット書きます。

世間にはいろんな人間がいるもので、温厚なワタクシをして怒りでブルッと震わせる不快な傲慢人間に、絶対数は少ないですが遭遇します。見ず知らずの相手なら良しとして、運悪く仕事上で付き合いがあったり、同じ職場の場合は困りもんです。なるべく関わらないように・・・と消極的対策を打つものの「行動は動機を強化する」という心理学の金言どおり、かえって憤りが募ったりしますなあ。

で、ここからが不気味と思うデキゴトであります。

相手に対しワタクシの不快感がマックスまで達して、フト、「こんなヤツあ、この世の中から消えちまえ」と思うと、恐ろしいことに、対象人物がほどなく病気で死んだり、大怪我をして私の前から消えるのです。うひゃーてなもんです。最初は単なる偶然と思ったけど、同じことが何度か繰り返されて、ああ、これはヤバいやつだ、と感じます。そりゃそうでしょう、消えちまえ、と思った相手が、実際に消えるなんて、まるで「デス・ノート」か「奥様は魔女」ですよ(古いなあ)。

とはいえワタクシも現代人。陰陽師でもなく、呪いなど信じてませんので、以下の説明をつけました。

・ 私が忌み嫌うX氏は、多くの人たちから同様に嫌われていたのであろう。

・ その結果、X氏は世間(組織)から孤立し、精神的ストレスがたまっている。

・ そのストレスが、X氏の精神と肉体に影響し病になったのである。

・・・と無理やり小理屈ですが、ほかに理由(因果関係)が思いつかない。それにしても、この嫌な感じは、何なんでしょう。分かっていただけますかね。現時点で入院中の、あのヒト、はぜひ死なずに社会復帰してください、お願いしますよ(切実)。

ということで本題。内田百閒の短編集「冥途・旅順入城式」です。

百閒さんの師である夏目漱石先生の「夢十夜」に倣ったとおぼしき、悪夢的ショートストーリーが、たっぷり48編も収録されております。気味の悪さとシュールさでは、「夢十夜」より上を行くとも言えましょう。どの話も、起承転結の「結」の部分がなく(ある意味「起」もない)、その何か起きそうで起きないまま、説明も解決もなく、唐突に終わる宙ぶらりん感覚が気色悪さを倍増させるのであります。おお怖い怖い。

ワタクシのお気に入りは「影」という作品。一読し、前出の体験(?)を連想しブルブルっと震えたのであります。たった12頁の話なので完全ネタバレですけど、こんな話です。

主人公は、無職で蓄えが底をつき、友人知人に、職の斡旋や借金の依頼をして回っています。最初に訪問したのは甲野という男の家。しかし甲野は不在。玄関にあらわれた息子とおぼしき三歳児が、主人公を見て逃げ出し、真っ暗な部屋へ逃げ込むと、ものすごい悲鳴を上げる(うーん、このシーンだけで怖かった)。2日後、主人公は、別の知人、乙川さんの家を訪れ借金を申し込みます。乙川さんから、甲野の子が突然高熱を出して死んだ、と聞かされゾッとします。さらに数日後、主人公は友人の丙田に会って、職の斡旋を懇願します。丙田からは、乙川さんが入院して危篤になっていること、甲野の息子が、死ぬまで「怖いよ怖いよ」と言っていたと聞かされます。

丙田が、冗談のように「君に見込まれると変なことが起きる」「俺には取りつかないでくれ」と話すのを、不快な気分で聴く主人公。そしてフト・・・

・・・とまあ、こんな話です。収録されている他作品に比べ、幻想味や荒唐無稽さは少なく、物語がしっかりあるのですが、それゆえに気味悪さがリアルでして、読後、背中の寒い感じがたまらんのであります。

主人公は死神か?などという、ありきたりの解決は不要で、ただ、嫌な感じをめでるのがオトナというもんでしょう。で、この物語の主人公を踏まえると、「あいつなんて消えちまえ!」と思うと、現実になる(こともある)私は、殺し屋ですかね。うーん、今日は何を言いたかったのか分からなくなった。

せいぜいオレは自分のことを嫌わないように気を付けようっと・・・って、そんなオチかよ。チャオー。

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ウイリアム・ブレイクの、詩集と画集にはまっているハナシ。 [本]

2019年4月。

このところ、はまっている物件が、ウイリアム・ブレイクの作品であります。

ウイリアム・ブレイク(1757~1827)はイギリスの詩人であり、画家、版画家でもあるマルチ才人。ひとりの人物の詩集と画集が、フツーに日本の書店で売られているその事実だけで、スゴイじゃん、と感心しちゃいます。

自宅に積みあがっていた「開かずの段ボール箱」を昨年、整理したさい、詩集と画集(版画と水彩)が発掘されて、我が家のトイレに置かれたのであります。便座に座って詩を読み、版画をじーっと眺めると、時間がどんどん過ぎるんです、おお、寒い寒い・・・じゃあ部屋で読めよ、つうツッコミもありますけど、これが微妙な気分的問題でしてね(←しどろもどろ)。

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さて、ブレイクの詩のある一節を読み、ワタクシ昨今ニュースで観た、悲惨な事件を連想しました。

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ひとが涙をこぼすのを見て いっしょに悲しく感じないのか

父親が子供の泣くを見て 胸がいっぱいにならぬだろうか

母親がおさなごのうめきや恐れを聞き じっとすわっていられようか

いやいや そんなこと あり得ない

決して決して あり得ない

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この詩を読むと、親による子供の虐待事件、が頭をよぎります。頼るものは親しかいない子供の弱みにつけこんで、殴る蹴るの暴行や、食事を与えなかったり、冷水をかけたりするとは、親でもなく、人間でもなく、鬼畜です。他者の活殺を握った優越感と、ゆがんだ支配欲にまみれたサディスト、要するに人間のクズです。彼らはブレイクの、さきほどの詩をどう思うでしょうか。ま、なんにも感じないんだろうなあ。

ブレイクの詩といえば、文学者の中野孝次さんが、生き方を決した言葉のひとつとして、これを紹介していました。

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The Angel that presided o'er my birth

Said, "Little creature, form'd of Joy & Mirth,

Go love without the help of any Thing on Earth"


わたしの誕生をつかさどる天使が、こう言った

「よころびによって創られた、ちいさき生きものよ、

行きよ、そして愛せ、この地球に、助けるものが何一つないとしても」

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どうですか。「助けるものが何もなくても」とはなんと残忍、だが、なんと核心を突いた条件でしょう。きれいごとではない真実がセンテンスをカーッと光らせています。虐待親の元に生まれたとしても、子供たちは、生きてさえいれば、いつか世界を愛すことが出来たかもしれない・・・うーーん、ブレイクにかぶれると、トイレが長くなる。。

詩のハナシは以上ですが、もう一冊「ブレイク 版画と水彩」も素晴らしい内容なんであります。

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ブレイクさんの創作の根底にあるのは、神の存在であり、画業は宗教色が強く、それゆえ、イマジネーションあふれる幻視的な世界観と、美意識が、眩暈のような感覚をひき起こします。

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人食い殺人鬼ハンニバル・レクター博士を主人公とするトマス・ハリスの小説「レッド・ドラゴン」、そのタイトルはブレイクのこの作品「巨大なる赤き竜」から採られております。レッド・ドラゴンは映画化もされましたね。

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ちょっと見ただけでは、というか、しっかり目を凝らしても、何だか訳分からん絵だけど、迫力と訴求力が尋常ではありませんな。頁を開くたび、見入ってしまう大好きな作品であります。

というわけで、ウイリアム・ブレイクのマイ・ブーム、まだまだ続きそうです。ブレイクだけあって、ワタクシの脳内で完全ブレイクだぜえ!とダジャレで締めるのもナンですが、本日は以上です。チャオー。

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