南伸坊さん著「本人伝説」「本人遺産」。爆笑必至の本人術には、ただ感服するばかりです。 [本]

本日は、2冊の本をとりあげます。

南伸坊さん、文子さんご夫妻による「本人伝説」(2012年)と「本人遺産」(2016年)であります。

いやあ、驚きました。イラストレーター南伸坊さんが、顔真似名人ならぬ「本人術」の名手なのは重々承知していました。しかし齢60を過ぎてなお、求道士のごとく、たゆまぬ研鑽をつみ、結果、あまりにバカバカしい進化と成長を遂げていたとは驚きモモノキ(古っ!)と言わざるをえません。ワタクシ、今回ばかりは自分のアンテナの低さ、不勉強を恥じ入る次第であります。はいっ。

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・・・と唐突に熱く語っても、なんのこっちゃ?とポカン状態の方へ、本作のツボをご説明しましょう。思いっきり手抜きして、「本人伝説」文庫本の裏から抜粋します。

「自らの顔をキャンバスに見立て、究極の似顔絵を描いてみせる南伸坊の『本人術』。政治家では安倍晋三、バラク・オバマ、スポーツ界では浅田真央、ダルビッシュ有、さらにダライ・ラマやジョブズまで・・・(後略)」

要するに、南伸坊さんがカツラ、衣装、化粧、表情の変化、ときにはアクションを駆使して有名人「本人」になりきり、そのポートレイトを奥様の文子さん(カメラマン)が撮影した写真集なんですね。

掲載された「本人」写真の数々に、あ、似てる、似てない、などと真面目に反応してはツマラナイ。ページをめくるたび、バカバカしさに大笑いすればよいのです。なんとラクチンな読書(?)であろうか。中学生、高校生の諸君、宿題に読書感想文が課されたら、ぜひとも、この2冊をチョイスください(確実に先生からは怒られるだろうけどネ)。

そもそも、オニギリ顔の南伸坊さん、ですよ。石川遼、錦織圭、堺雅人もヒドイけど男性だから百歩譲って許しましょう。しかし異性(女性)のベッキー、滝川クリステル、浅田真央、蓮舫、壇蜜・・・となると暴挙を超えて、もはや狂気の沙汰であります。とはいえ、その行為(心意気)だけでも、がははは、と大笑いできる点が本人シリーズの素晴らしさですねえ~。

「本人伝説」より、松田聖子さん(になりきった南伸坊さん)。プッ。。。

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「本人遺産」より、トランプ大統領(になりきった南伸坊さん)。ププッ。。。

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さらなる「本人」を観たい方は、本屋さんやamazon等で「本物」の本をご購入して、堪能くださいまし。

以上で、今日のブログを終わろうと思ったら、おお、そうだ。ここ数日間(2017年2月中旬以降)、ずーっとトップニュースになっている事件の「あの方」を伸坊さんは4年以上前に、本人術の対象にしていたんですね。どーん。

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マレーシアで暗殺されるとは・・・という事件にめげず、伸坊さん、これからもバシバシ「本人」になって世間に明るい笑いを振りまいて下さいっ!よろしくですーー。

ちなみにワタクシが、伸坊さんの本人術で、もっとも衝撃を受けた作品は、たぶん30年くらい前と思いますが、斉藤由貴(になりきった南伸坊さん)でした。失礼ながら、あのお顔でセーラー服を着てましたもんね~、いやあ、夢に出てきそうな、ものスゴい破壊力でした。ちゃんちゃん。


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佐野洋子さん著「死ぬ気まんまん」。死ぬことをしっかり考えると、結局、気持ちが楽になるというハナシ。 [本]

他人様には興味ゼロの話でナンですが、ワタクシ、今年(2017年)で55歳になります。四捨五入すると60。どうだあ!と自慢してもしょうがないけど。

55歳ですから、職場(会社)が潰れるか、粗相でクビにならなければ、定年退職(60歳)まであと5年。サラリーマン生活完了までカウントダウンに入ったなあ、と特に感慨もなく思うわけですが、

カウントダウンといえば、シゴトの終わりもさることながら、「死」へ向かっても着実に歩みが進んでいるわけです。

今のワタクシは大病を患っていませんし、当面は自殺の予定もないので〇年後に死ぬ、と明言はできませんけど、ここ数年来の心身衰え曲線を人生グラフ上に外挿すると到底80歳まで生きないだろうし、70歳も無理だろうな、と思う。

出張するとすぐ疲れるし、そうでなくても体が重い(8kg近くもダイエットしたんですがね)。どこでも寝られるのが自慢だったのが最近は自宅でさえ寝つきイマイチ。食生活が乱れると、とたんに胃腸の調子が悪くなる。風邪をひくとなかなか治らない。物忘れも年々ひどくなって、先週は出張先のホテルを二重予約しちゃいました(すでに予約していたことをスッカリ忘れ、別のホテルも予約した)。

まあ、50歳を過ぎれば、多かれ少なかれ「衰え」はみな感じるでしょう。しかし、ワタクシは、せっかちなためか、「ほお、こんな調子で、衰えて、体が痛くなって、病気で死ぬんだな~」と思う。この手の話(自分の死)を始めると、縁起でもないぞお!と一昔前なら一喝だった。しかし、最近は風向きが変わり、必ず訪れる自分の最期と向き合おう、と、「終活」なんつう上手い言葉も登場しましたね。これは良いことであります。

で、なんとなく、「死」を扱ったエッセイ本を、最近、いくつか読んでみました。

テーマがテーマだけに切り口が千差万別でした。一番、いやなタイプは宗教臭の強いやつ。死後の世界がどうこうと、ハッキリ言ってどうでもよい。次に嫌なのは極限まで達観つうか諦念状態に入っているたぐい。ま、死んだ経験のあるヒトなんて誰一人いないから、各人、好き勝手なノリで語って良いんですけど。

さて、ワタクシのツボにはまり、「そうだよ、そう!」と相槌を打ちまくったのがこの本です。

絵本作家、佐野洋子さんの最後のエッセイ「死ぬ気まんまん」であります。

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佐野洋子さんは70歳のとき癌転移により余命宣告を受け、2年後の72歳でお亡くなりになっています。余命宣告からの日々をつづったのが、この「死ぬ気まんまん」。言葉は悪いですが、このエッセイは痛快ですね。

死ぬ覚悟ができた人の手記つうと、悲壮なイメージがあるけど、佐野さんはカラッと、こう書かれています。

「私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ。ガリガリにやせて、現場で死ぬなら本望という人も大嫌いである。」

いや、ほんとそうだ。私もSNSで闘病生活をつづる人の神経がいまいちピンとこない。批判ではありません、だってSNSに何を発信しようと個人の自由だから。有名人の闘病ブログをみて、同じ病で苦しんでいる人が「勇気をもらえる」気持ちは分からないでもない。でも、病気(の苦しみ)なんて、しょせん極私的なもので、苦痛そのものを分かち合えるわけでなし、意地悪に観ちゃうと「不幸の披露(アピール)」じゃん、と思ってしまう。読むほうだって、どうなんでしょう、「〇〇さんって大変そうね。髪の毛、やっぱり全部抜けちゃうんだ。ずいぶん痩せたから、そろそろ死ぬのかな」な~んて大半は、興味本位・好奇心メインではないですかね。

昨今は、ネットでチョイと調べれば「〇〇ガンのレベル〇は5年生存率〇%」とか「化学療法の詳細」などなど簡単かつ無慈悲に医療情報が入手できちゃうわけで、そんな現在、闘病記の意味って果たしてなんだろう?と思ってしまう。

その点、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」には、ごく素直な日常の怒りや喜びがフツーにつづられてヨロシイと思う。ドケチな友人(?)への今更ながらの恨み節も人間味があってナイスです。笑えるエピソードは、余命宣告を受けてから、ジャガー(外国車)を、どーんと購入するくだり。そう、死ぬときに金を抱え込んだってしょうがありません。私が同じ立場だったらソナス・ファベール社(イタリアのメーカ)の高級スピーカーを買いますけどね。

ワタクシが、一番ツボにはまった文章はこれです。

「私は死ぬのは平気だけど、痛いのは嫌だ。痛いのはこわい。頭がボーッとして、よだれを垂らしていてもいいから、痛いのは嫌だ。」

ハイッ!まったく同感です。ワタクシもじゅうぶん人生は楽しんだ、やりたいことはやった、だから死ぬことは怖くないですが、痛いのだけは勘弁してほしい。モルヒネだか鎮痛剤だかを大量に投与いただき、延命治療なんてしなくてよいから痛くせずに死なせてください。お願いっ!

話は変わりますが、佐野洋子さんといえば、伝説的ベストセラー絵本「100万回生きたねこ」を描かれた(&書かれた)天才作家であります。あの物語には様々な読み方がありますが(それが名作たるゆえんですね)、私は、「なんのために死ぬのかが、すなわち、なんのために生きるかなのだ」と読みました。主人公のねこが、無為に百万回生きるより、ある目的のため(物語では白いねこのため)、最後に一度だけの生を「選んだ」と読めば、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」はまさに彼女が作品どおり生をまっとうした記録なのだ、と痛感しちゃいます。

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さて、もう1冊。

椎名誠さん著「ぼくがいま、死について思うこと」です。

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日本や世界各国の「死の捉え方」を、お葬式や、埋葬など習慣の違いから明らかにしていく前半から、やがて、椎名さん自身の豊富な体験談、そこから椎名さんの「死に対する考え」へと話は展開します。世界中で冒険旅をしてきて、危機一髪で命拾いしたもろもろのハナシ、辺地ホテルでポルターガイスト(幽霊の一種ですね)に遭遇した件など、それだけでも読み応えがありますね。

さらには、サラリーマンから作家に転身し、馬車馬のように働くうち、うつ病に陥って、ビルから飛び降りそうになった顛末など、「死」に近づいた体験までがリアルにつづっておられます。

このエッセイ、椎名さんは69歳のときに書かれたのですが、さすが文章の名手、と深く納得しちゃいました。「死」という扱いづらいパーソナルなテーマをみごとに深掘りされております。私は、自分が死ぬとき、これ読んで死のう、と思っちゃいましたね。

椎名さんが知己の方々に、死に関するアンケートをとっている最後の章はホッとするというか、いいなあ、と思っちゃいます。私も椎名さんと同様に、死ぬときは「延命治療は拒絶」、葬儀は残ったものの判断にまかせるけど別にしなくても良いや。仲の良い友人たちで「偲ぶ会などやってくれても良い」と思います。

30年も関東に住んでいながら、友達は出身地の北海道(札幌)にしかいないワタクシ。友人代表のカニオ君、私を火葬したあとの灰のほとんどは石狩湾あたりに撒いてほしい(法律的にできないのかもしれないが)。残りチョットの遺骨は(最終的には)家の者や、飼い猫のもこの遺灰と一緒に埋めてほしいです。「偲ぶ会」は、いつもの呑みメンバーを集めて開催をお願いします。居酒屋の天井裏から、皆さんの様子は覗いているよ(怖いわ!)。

・・・などと、自らの死について考えると、結局、気持ちが楽になりますね。もちろん今すぐ死にたいわけではないけど。そのときに向かって、ま、しっかり生きていくことにしましょう、ハイ。


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1965年ノーベル物理学賞の受賞者、朝永振一郎博士の著作が素晴らしい、というハナシ [本]

今年(2016年)も日本人科学者がノーベル賞を受賞したそうですね。おめでたいことでございます。

さて、たまたまですけど、日本人二人目のノーベル賞受賞者(1965年)である朝永振一郎(ともなが しんいちろう)博士の著作を、ワタクシ、いま読んでいるのでした。

朝永振一郎(1906年生、1979年没)は京都大学出身。量子力学の分野において、理論構築に多大な貢献をされた方だそうです。リョーシリキガク、と聞いただけで、ギャッと叫んで逃げ出すワタクシごときが、朝永博士の偉大さを推し量るべくもありません。

asanaga3.jpgしかし、朝永博士は難解理論を並べるだけの学者でなく、若い人たちへ向け物理学を分かりやすく紹介・解説する(といっても、それなり難しいが)活動を続けていたのでした。

その著書がすごく面白いんです。たとえば「物理学とは何だろうか(上)(下)」という本。理科好きの高校生が、この本を読んだら物理学者を目指すだろうなあ、くらいの魅力的な内容なんです。

なんといっても朝永博士の文章が素晴らしいんですね。物理学の「美しさ」「完璧さ」に対する敬意にあふれ、読者と感動を共有しよう、というスタンスなんです。上から目線で「教える」姿勢ではありません。それゆえ親近感がわき、抵抗感なく文章に入り込めるんですよ。

一方、物理学の歴史的発見に関しては、顛末を、まるで小説のように書いてくださるので臨場感が抜群なのであります。

なんという卓越した筆力であろうか!

朝永博士と同じ京大出身、日本人ノーベル賞受賞者第1号(1949年)の湯川秀樹博士(1907年生、1981年没)も、物理学をひろく理解してもらおうと入門書を書かれています。知的かつ論理的で素晴らしいと思いますが、残念ながら、朝永博士のような「いっしょに感動しよう」という一体感には乏しい、教科書的な面があって、読み進むのに少々苦労いたしました。

下写真の左が湯川秀樹博士、右が朝永振一郎博士です。写真をみても湯川博士のいかにも研究者然とした様に比べ、朝永博士は気さくなご近所のオジサンという雰囲気ですね。

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朝永節にのめりこんだワタクシ、調子にのって、こんな本も読んでみました。

朝永振一郎著「量子力学と私」であります。

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うはあ。これはヤバいでしょう。量子力学なんざ手も足も出ないもん。無理あるだろう・・・と思うのは早計でございます。

あなた、驚いてはいけませんぞ。

タイトルにもなった「量子力学と私」は、20世紀前半の量子力学を総括しつつ、自らの研究を紹介する講演記録です。研究者向け講演会ですから、素人には内容はチンプンカンプン、全く理解できません。ところが!これが実に面白く、いたってスムースに「読み進める」ことができるんです。内容が理解できずとも、リズム感のある文章にグングン惹きつけられ、一気に読み終わりました。いやはや、恐るべき文章力であります。

朝永振一郎博士の著作にゾッコンのワタクシ。超ローカルに私のまわりを、朝永ブームが渦巻いているのであります。

ところで「量子力学と私」には、朝永博士のドイツ留学時(1938年から1939年)の日記が収録されています。この「滞独日記」があまりにツラい内容で、読むと苦しくなります。頑張って研究(理論計算)をしても、ことごとくうまくいかず、ほかの研究者の成果を見聞きしては、自分はなんてダメなんだ、と悶々とする日々。ノーベル賞をとるほどの優秀な頭脳でも、悩み、苦しみ、焦り、自己否定や絶望に陥る時代があるものか、と感慨深かったです。偉大な学術成果は簡単に出来上がるものでなく、煩悶や苦悩から生まれたってことですわね・・・はい。

以下、朝永振一郎博士の「滞独日記」より抜粋です。ううっ。切ない。

ゆううつ、計算がうまくいかない (1938年11月17日)

手紙をみて、なみだが出てきた (11月22日)

自分一人とりのこされて人々がみな進んでいくような気持がする (11月23日)

日記をかくのがおっくうになってきた。書けばとかく泣き言になるからだ (12月9日)

どうしてこうも意志薄弱なのだろうと、心があんたんとしてくる (1939年1月19日)

人間のもってうまれた気質というものが、結局は色々な後天的な気質をおしのけて人間の一生を支配するらしい。何となくいつでも失敗する人、何となくいつでも損する人、何となくいつでもうしろに引こんでいる人、何となく人にきらわれる人、などというのを見ていると、教育や境遇は、その人の職業や位置を決定するが、その中でのその人のありようを決定するものはただ生得のものだけであるように思われる (1月19日)

2月23日の計算、誤りなことを見出す。その間に1月たっているのだ。バカもこうなるとはなはだしい (3月30日)

こんなに計算に考えが左右される人間は、いっそ計算などやめる方がいいのかもしれない (4月3日)


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大槻ケンヂ著「40代、職業・ロックミュージシャン」がツボにはまりまくり! [本]

久々にツボにはまった本をご紹介します。大槻ケンヂさんの「40代、職業・ロックミュージシャン」(アスキー選書)であります。いやあ、これには笑ったなあ~。

小説ではございません。ロック・バンド筋肉少女帯のヴォーカルとして活躍し、小説やエッセイにも手を染めるオーケンこと大槻ケンヂさん(1966年生まれ)による対談集であります。

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対談のお相手は80年代バンドブームで登場したロックミュージシャンの面々。髪を振り乱しステージせましと暴れていた(当時の)若者たちも、いまや40代あるいは50代です。本の帯にあるように「金・女・音楽」が、いつしか「仕事・健康・子育て」に変わった中年たちの、「今」のリアルを、オーケンが笑いとペーソスをからめながらヒアリングしてくれるんです。もう、たまりません。

たとえば、ロック雑誌のインタビューで、還暦を過ぎた大御所アーチストが「オレもずいぶん歳をとったもんだゼ」などと述懐しますがね、それは第一線で長きにわたり活躍した男の勲章・・・みたいなニュアンスで出てくる言葉です。

ところが本著で語られるのは、そんな見栄やポーズなどブッ飛ばした、赤裸々つうか、大笑いというか、まんま超リアルな中年の生き様であります。50代半ばのロック小僧であるワタクシ、おおいに腑に落ちるのであります。

ですから、登場するロックミュージシャンに関する知識ゼロでも、この対談集、全然、楽しめちゃうんですね。

有名ドコロでは、SHO-YAの寺田恵子さん。レッド・ウオリアーズのダイヤモンド☆ユカイさん。ラウドネスの二井原実さん。サンプラザ中野さん。ROLLYさん。ZIGGYの森重樹一さん、、、などなどが名を連ねます。

対談転記などは野暮なので、興味のある方は本を読んでいただくのが一番ですが、

ワタクシがつい、「そうだよ、そう!」と声が出た箇所を書きます。それは二井原さんがライブに関して語った言葉、「ラウドネスも広いところでやるときは、基本イスを置いたほうが(お客が)来てくれますね。もうね、疲れたら、座ってくださいって感じです。」というくだり。

わははは、ハードロックやヘヴィメタルって、ファンも、それなり年寄りですもんね。ワタクシもライブでは、イスに座っていたい。ジューダスプリーストの武道館公演に行ったとき、観客が全員総立ちで(そして最後まで立ちっぱなし)、ワタクシは途中で疲れはてて、後半1時間はイスに座ってましたよ。ロブ・ハルフォード御大の雄姿を観るどころか、前席のヒトの背中を観ながらのコンサート・・・トホホ。(もちろん、アンコールでロブさんがハーレーダヴィッドソンで登場する、お約束パフォーマンスはしっかり拝見しましたがね)

というわけで、ロックコンサートの主催者は、われわれのようなオールドファンのために、「着席エリア」を設けて欲しいです。単にイスがあるのではなく、立つこと禁止!立ちあがるなら、そこから出てけ!なんてね。

ロックン・ロールは永遠でも、オーバー40のミュージシャンとファンの体力は、すでに限界近いのであります。ちゃんちゃん。


ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」で、柄にもなく世界の限界を考える日。 [本]

今日は、ある本をテーマに世界(の限界)を考えちゃおう、というトンデモナイ企みであります。グダグダ支離滅裂記事になるのは確実ですけど、たまに哲学ネタもいいじゃん?といったユルイ感じでヨ・ロ・シ・ク(←ここは矢沢永吉さん風に)。

素材は、20世紀哲学の天才と目されるウィトゲンシュタインさん(1889年~1951年)が、20代後半に執筆した(出版は1922年)、有名なこの本であります。

どどーん。論理哲学論考。うは、なんつう小難しいタイトルだろう。

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実際に内容も小難しいのであります。分かったふりをして解説めいた事を書くと、私のバカっぷりが露呈しちゃうので、ちょっと違う切り口から入ります。この著作にワタクシが惹かれた背景、みたいなとこから始めますね。

ここから自分のハナシ。最近、ワタクシが気に入らない筆頭事項。それは、世の中の多くの会話場面で、会話の前提たる「語の定義」が不正確という点。具体的に言えば、聞こえはいいがその実(じつ)漠然としたターム(単語)を振り回し、悦に入ってる困った輩が多い事です。

たとえばワタクシの飯のタネでもあるプラント電機設備。この業界では「システム」という単語が頻出します。システム・エンジニアリング、システム立案、システム構成・・・ここで言うシステムとは、変圧器とか開閉器とか監視装置といった個々「単品」ではなく、それらを組合せて機能を発揮する「総合体」という意味が多いでしょう。

野球選手ひとりは「選手」にすぎないが、複数の選手、監督やコーチ、スタッフが集まりチームとして、試合に勝つ目的で集合すればシステム・・・ちょっと強引だけど、こんなイメージでしょうかね。

しかし。システムという語はひじょうに広義であって(カッコよく言えば「上位概念」で)、事物の集合体のみならず、維持体制、管理、秩序といった概念をも含んでおり、なんらかの限定をしなければ、極論、わけが分からんのです。

このシステムという語を使って会話しても、各人が思ってる「システム」範囲が異なるので、やがて会話はズレていきます。一見、便利にみえた上位概念タームは具体性で問題が多く、使うほど核心から遠のき、ますます、あいまい化するわけです。(それゆえ、企業トップや管理職、広告業界がやたらに使う、という困った逆説が生じる)。

このような「まるめて一丁あがり」的な単語に横文字コトバが多いのは、見栄え(聴き映え?)ゆえか、ギヴ・ミー・チョコレート的な日本人メンタリティでしょうか。いっぱいありますよね。

ソリューション、トータル、インテグレイト、ワン・ストップ、マネージメント、ガバナンス、エグゼクティヴ・・・etc.

「もともと概念をあらわす言葉なんだから、具体性などないだろ?」と反論ありましょうが、いや、私が言いたいのは言葉自体でなく、「あいまい概念を明確に限定もせず、平然と使って済ます」現状世間の有様のことです。

ほら、ダイエット会社のCMキャッチコピーに「結果にコミットする」ってあるでしょう。どういう意味でしょう?コミットとは「積極的に関わる」ことだけど、「結果に積極的に関わる」って何だあ?何してくれるの?ダイエットの最中にコミットするなら分かるけど、「結果」って終わったあとに分かること。それを言うなら、コミット(関与)ではなく、ギャランティー(保証)じゃないのか?でも企業側が結果を保証しちゃったら、客が痩せなかったとき返金しなきゃいけない。そりゃマズイよ、みんなが必ず痩せるわけじゃないもんなあ、田中君、なんとかならんか。あっ、部長、「コミット」っていう便利な単語を見つけました。やるな、田中君、「結果にコミット」、いいじゃん、何も保証してないし、モンク言われても、ぼくらコミットしたもんね、で済むもんなあ。田中君、君は今、この場で昇進だ。

・・・と、田中君の顛末は知らないけど、そんな調子じゃないかな。

以上、前置きが長くなりましたが、やっと本題に到達です。ウィトゲンシュタインさんによる「論理哲学論考」の話です。

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私なりに乱暴に本著をまとめると「言葉って限界があるよね」「その言葉で考える限り、論理や思想にも限界(境界)があるよね」「語れることと、示せること、って別物だよね」・・・という、けっこう当たり前を言ってるんです。それらの証明に難しい論理式がどっさり出ますので、専門外読者にはチト厳しいですが。

言語で語ることの限界、なんて当たり前じゃん、と思った方。それって当たり前でしょうか?

古今東西、「語れないはずのこと」を、まるで事実のごとく語り、議論してきた多くの先人たちがいるわけです。

語れないものは文字通り語れない。たとえば倫理。たとえば美。究極をいえば神。

ドラスティックにウィト先生はこうおっしゃる、「明らかなことだが倫理を言葉にすることはできない」。では、それをお題に議論してきた哲学はどうなるのか?ウィト先生いわく、「過去の哲学の命題や問いは、間違っているわけではない。ナンセンス(無意味)なのだ」と。

さらに「神」について強烈な一言をかましてます。中世だったら異端審問会で火あぶりの刑ですなあ。いわく、「神が姿をあらわすのは、世界のなかではない」。そう、もしも神が姿をあらわすとしたら、「神を語りえる」別の世界であって、少なくとも、われわれのこの世界ではない、ということ。だって神は「事実ではなく」それゆえ「語りえない」のだから。

うわあ、そんな事、言っちゃうんだ、と読んでるこっちがビビります。「世界とは、起きたこと(事実)の総体であって、事物の総体ではない」と断言する先生ならではの信念が感じられます。

語れるものは明確に語れる、その逆論理が本著の最後を飾る名言に収斂します。

「語りえないことについては沈黙するしかない」

ウィト先生は「語ること」=言語と論理、を明確にしようと、それらの限界(限定性というべきか)の解明に挑み、ついに世界の限界(境界)という考えに至ったのでしょう。「論理哲学論考」には論理式がたくさん出てますが、実は、直観的に結論に至ってるように思える・・・なんて、失礼を言ってはいけませんね。

こんな入り組んだテーマを扱う本著を、ワタクシごときが考察しきれませんけど、この本がワタクシのツボにはまる理由はまさしく言語と世界の限界(性)と境界、という発想にあります。

冒頭の話に戻りませう。世間に横行する「あいまい概念用語」の濫用は、ウィトゲンシュタインさんが到達した限界を、まったく気にとめていない所業です。むしろ限界性を意識しない=開き直っている、というべきか。

広義概念を包括した(かのように拡大解釈された)あいまいな単語を並べ立て、あたかも「何かを語った」気分になる大馬鹿たちの横行。一方で、各論の深堀りから逃避し、言われた側の認識(思い込み)のズレや乖離など、知ったことかの政治家や企業経営者たち。そやつらに従順にしたがう家来や子分どもが、ますます「世間のあいまい化」を増長させる。

もちろんウィトゲンシュタイン先生は、上位概念が悪いなどと言ってはおらず、それらが細かな”要素命題”に分解され個々が明確に「語りえる」ものになれば論理的に成立する、と考えるわけです。問題は、言説を、あいまいのままに放ってしまうこと、それは一種のコミニュケーション不全ですよね。

ほら、あるでしょう、漠然と下のものに檄を飛ばし「あとの細かいことは、現場でよろしく」なんてね。そんなんだから、新国立競技場の建設費はウン千億円に膨らみ、エンブレムデザインは盗用騒ぎになり、STAP細胞はありま~す、になり、年金記録はズブズブの抜け落ちだらけになり、と、惨憺たる有様を呈するのであります。あれ、ちょっとエラソーに話を広げすぎたか、ははは。

ウィトゲンシュタイン先生の「論理哲学論考」。小難しいけどスリリングな思考体験を与えてくれます。読書ならぬ、毒書の類ですねえ。

最後に、ヴィトゲンシュタインさんのお名前の日本語表記。以前はラストネームのWiを「ヴィ」と表記していました。今回、再読した光文社文庫もそれを踏襲してます。しかし最近は「ウィ」と濁音抜けで記載されることが多いようです。このブログ記事はそちらに準じています。本件は「語りえるもの」だからハッキリしてほしいね。ドイツ語圏なら、ウ、ではなく、ヴ、が正解のような気もしますけど。ま、いいか。

と話がバラバラに拡散(崩壊)したところで、今日はお終いっ。チャオー。


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パトリック・ズュースキントさんの戯曲「コントラバス」は、クラシック音楽好きなら必読でしょう! [本]

2015年9月。

クラシック音楽を聴くのが趣味の方は世間にそれなりいるようで、ワタクシにもそのテの知り合いは何人かおります。しかし、いざクラシック音楽を語り合うと、気が合う、といいましょうか、話をして心地よい方は、悲しいかな、たった1名なんであります。(音楽の好みが合う、のではなく、気が合う、ってとこがポイントですね)

そんな貴重な友、Aさんがワタクシに貸してくれた本について書きます。

題名は「コントラバス」。著者はドイツ人のパトリック・ズュースキントさん(1949~)。

コントラバス2.jpgコントラバスとはチェロを二回り大きくした低音弦楽器。ブンガクに疎いワタクシ、この楽器の教則本かと思いました。Aさんは、ワタクシにコントラバスを習わせたいのか?

本を開いて目を通すと、あれっ、違いますね。戯曲なんですね。ほほう、と読みはじめたとたんに、うわ、こりゃいい!とツボにはまりました。冒頭のト書きが、こうなんです。

部屋。ブラームスの交響曲二番のレコードがかけられる

曲をご存じの方なら、お分かりですよね。この曲がコントラバスの合奏で始まることを。そこにホルンがからみ、木管楽器が加わり、ヴァイオリンが涙が出そうな素晴らしいメロディを加えて・・・。あ、頭のなかで楽曲再現しちゃった。ちなみに私の脳内に鳴った演奏はケルテスさん指揮ウィーン・フィル、1964年録音のDECCA盤だね・・・って、話がどんどんブレれおります。すいません。

いずれにしても、冒頭でぐわっとココロを掴まれたワタクシ、この戯曲を一気に読み切りました。

結論、面白かったあ!いいなあ、このセンス、このノリ。

ウィットに富んだコメディタッチの一人芝居です。登場人物は、コントラバス奏者の男性だけ。場面は彼の自宅の一室のみ。そこから主人公が観客に語りかけるスタイルです。

主人公は、音楽大学で学んだあと、ドイツの(たぶん有名な)国立管弦楽団に入団しました。知性的で、音楽に一家言を持ち、それなりプライドがありますが、実は鬱憤がたまっています。やがて、コンプレックスと屈折した本音があらわになってきます。その過程が、なんとも面白い・・・というお話です。

まずはコントラバスを弾きながら、この楽器の重要性を力説する主人公。ところが楽器に足がつまづくや、やつあたりを始めます、「でかいだけの、汚い箱め!」とわめき散らす。自らの演奏力については、陽の当たる場所に出ることもなく、一生、シューベルトの五重奏曲「ます」は弾かせてもらえない、と悲観的であります。

若い美人オペラ歌手にゾッコンですが、「しょせん、ボクはオーケストラの二流奏者。話をするどころか、目を合わせるチャンスもないさ」と嘆きます。

そうかと思えば、妄想が加速し、「オペラ座の本番で、みんなが驚くことをして、彼女の気をひく」つう無茶苦茶な作戦をまじめに考え始めます。演奏中に、突然「君が好きだ!」と叫んだらどうなるだろう。前代未聞、翌日の新聞に載るだろうなあ。指揮者のカルロ・マリア・ジュリーニ(!)はビックリするだろう。でも、楽団から解雇されるだろうな。公務員で一生くいっぱぐれないのに、そんなことボクはできるかなあ

・・・とシミュレーションする様はバカバカしさの極みだけど、セリフの妙、話の流れ、テンポにより、本作は読むにたえる、いや読者をグングンひきつける佳作に仕上がっています。アッパレ!本作は、著者ズュースキントさんのデビュー作らしいけど、評価、人気とも抜群だったのは納得です。

さてワタクシは、本筋には無関係の、随所にちりばめられた音楽ネタに、にやにやし、そうそうと頷くのでありました。

主人公の防音部屋、窓をあけたとたん街の大騒音が流れ込む場面で、主人公いわく「まるでベルリオーズの『テ・デウム』のようなうるささでしょう。野蛮ですよね。」ときた。わははは、ナイスな比喩!たしかにあの曲はウルサイ。つうか、ベルリオーズの曲は全体にウルサイ。ただ、私なら、ヴェルディのレクイエムの「怒りの日」に喩えるけど。

いっぽう音楽に関する哲学的セリフは、さすがはドイツ、と思わせる説得力です。いわく、「音楽は形而上学的なものだからです。(中略)時間や歴史や政治や貧富や生と死の彼岸に存在するということです。音楽は--永遠なんです。」

モーツァルトに対する主人公の見解には、そう、そうだよ!と思わず声が出ちゃいました。「音楽家としてのモーツァルトはかなり過大評価されていると思うんです。(中略)不当にも忘れ去られてしまった何百人もの彼の同時代人と較べてみて、彼がなにか比較を絶して特別なことをしたかというとそうじゃないですもん。」・・・いやはや、おっしゃるとおりです。私に言わせれば、フンメルの曲でさえ、モーツァルトよりも素晴らしいもんねえ。

そんなこんなで、おおいに楽しめた戯曲「コントラバス」。ステージで実演を観たいです。主役を演じる俳優さんは、誰が良いかと想像するのも楽しい。イケメンは合わないので濱田岳さん、とか、阿部サダヲさん、なんてどうでしょう。そうだ、川平慈英さんがピッタリかも!

戯曲の最後のト書き。良いんです。コントラバスとくれば、やっぱりこの曲です。

彼の足音が遠ざかる。彼は部屋を出る。ドアが閉まって鍵がかかる。その瞬間に音楽が始まる。シューベルト「鱒」、第一楽章。

<蛇足> 著者のパトリック・ズュースキントさんは、「コントラバス」の4年後の1985年に「香水」という小説を発表します(苗字のカナ表記が「ジュースキント」に変わってますな)。本は未読ですが、映画化された「パフューム、ある人殺しの物語」(2007年)を観て、ワタクシ、ぶっ飛びました。とんでもなく突き抜けた内容で、ファンタジー・エログロ・ホラー、とでも言いましょうか。主人公の生み出す香水のフェロモンは、沢村一樹さんのセクスィー部長どころのハナシではございません!未見の方、是非ご覧になってください。間違いなく目が真ん丸になりますよん。

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ちなみに、アラン・リックマンが脇役で似た役を演じているからといって「スィーニー・トッド」ではありません(ああ、説明がややこしい)。あ、そうそう、「パフューム」の映画サウンドトラックは、なんとサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルです。クラシック音楽好きは、ここで唸るわけです。と、話がすっかり散らかったところで今日はお終いっ。ちゃんちゃん。

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吉田健一著「酒肴酒(さけ・さかな・さけ)」、酒に酔わずとも、この本があれば十分に酔えます! [本]

2015年8月。今日は酒と肴についての「本」をご紹介、であります。

ワタクシ、かなりのノンベイです。30代の頃(20年前)は、酒の銘柄などどーでもよく、ましてや酒の肴(さかな)なんぞは宴会の添え物、みたいな雑なノンベイでした。酔って浮かれて呑み仲間と騒ぐのが楽しかったんでしょう。しかし年齢を重ね、若干フトコロに余裕ができると、地方出張の夜に、地元酒場で、地酒や土地の肴をいただくようになり、「美味い酒、美味い肴は良いなあ」という当たり前の点に気づく。

爾来、酒の「味わい」に目覚め、50代半ばに至ったわけです。ハイ。

・・・あれ?今日は何の話だっけ?いかん、私の飲酒遍歴を語る記事ではなかった。

吉田健一さんの名著「酒肴酒(さけさかなさけ)」の紹介です。

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呑みすぎでヒドイ二日酔い、さすがに今日は酒は要りません!そんなアルコール・ネガティヴな日でも、この本を読みますとあ~ら不思議。「酒ってやっぱり良いなあ」と二日酔いも改善し、さらに気持ちよく酔った気分になります。読んでて、にやにやと笑顔が出ちゃう。そう、これは「ノンベイの聖書」なんであります。

著者の吉田健一さん(1912年~1977年)は翻訳家、小説家、エッセイスト。吉田茂元首相のご子息で、もともとは外交官だった父親の任地であるイギリス、フランス、中国で育ち、ケンブリッジ大学で学んだ国際派の才人。この方が無類の酒好きでして、ブランデー、ウイスキー、ワイン、シェリー、日本酒、なんでもござれの本格ノンベイ。

キライな酒だろうと、二日酔いと嘔吐を繰り返して最後には制覇する!つう、マゾというか、スポ根アニメな方であり(実は、酒が弱い?)、チマタにあふれる今どきの酒好きエッセイストとは気骨が違うわけであります。

「酒肴酒」では前置き的文章のあと、各地を飲み歩くシリーズが登場します。痛快なのは、山形県酒田に山海の美味を味わいにいく話。吉田さんの目的は「酒田で呑み、食う」という一点に絞られてますから、やることがスッキリと潔い。東京から酒田に着くなり、午後4時に相馬屋に入り、地酒「初孫」を呑みながら、地元海鮮を食いまくります。車海老の刺身、茹で蟹、最上川の鮭、飛島のアワビ、鯛、サザエのつぼ焼き、鰰(はたはた)・・・うわあ、やるなあ。

一泊して翌日。朝の、鯛の味噌漬けを皮切りに、地元の菓子さえも交え、食い、そして呑む。その翌日も同じ調子で飲み食いを続けます。挙句に、最後の吸い物を味わっているうちに、危うく帰りの電車に乗れなくなるほど。要するに、酒田にいた2泊3日の間、同じ宿に陣取って朝から晩まで、わきめも振らず、酒と肴に特化してたんですね。

なんという贅沢だろう。いや、むしろ苦行ともいえますね。TV東京の大食い選手権か!?映画「セブン」の大食殺人か!?てなもんです。

ここまで読んだ方は、吉田健一さんは、ガクト様も真っ青の美食家か?とお思いでしょうけど、とんでもございません。吉田さんは、しょぼいモノは、しょぼいなりに楽しんでしまう度量の深さをお持ちなんです。上から目線でエラソーに、ではなく、酒や肴、料理という「嗜好品」を比較する虚しさを知りつくたうえで、「それはそれ、これはこれ」という達観した感覚なんですね。

ほら、自然派を気取る作家が、往々にしてホテル朝食の「わびしさ」や、無個性なビュッフェ(バイキング)を批判するじゃないですか。吉田健一さんは、そうした読者に媚びたアピールは全くしません。いいじゃないの、それはそれで、という超ワイドなストライクゾーン。もちろん吉田さんにも「好き嫌い」はあり、けっこうハッキリそれを書いているけど、価値観の押しつけスタンスではありません。

さらに、「酒肴酒」というエッセイのスゴイさは、読みやすさなぞ無視したブンガク域に入っている点でしょう。ありていに言えば、文章の読みづらさがピカイチ。独特のグッタングッタン展開、事実と思いと比喩を一文にぶっこんで読み手を困惑させる支離滅裂さなど、まさに酒を語るにふさわしいレトリックであります。いきつもどりつする文章は、さながら歩きながら道草をしちゃう子供、あるいは目指す先が見えないシューベルトの後期ピアノソナタ。うーん、私も何を書いているか分からんですね。

その予定調和を超えたスリリングな文章に、個性とセンスがあって良いんです。そうです、酒を語るのに、読みやすく整った技術レポートみたいな文章はいらんのだあ!読み手に、「酒を呑むことへの愛」が伝わるかが重要なんですから。

というわけで、「酒肴酒」より吉田さんらしい文章を抜粋します。ワタクシ、二度読みしたけど、頭に入らず、三度読んで、なんとなくそうねえ~と思っちゃう名文(迷文)でした。なんたって一文の長さがスゴイ!酔って書いたわけじゃないだろうなあ・・・。

以下、吉田健一さん「酒談義」より抜粋:

そして日本酒とシェリーも全く同じものではないから、あとで樽の菊正か何かを飲むことを思いながら、頭の半分は西洋にいて、シェリーがシェリーでというものである以上、それから先が食堂のよく磨いた卓子(たく)に向って左手で手持ち無沙汰にパンを細かくちぎりながら、右手で白葡萄酒のグラスを口に持って行くことになるが、同じく木でも客の肘が擦り付けられて光っている飲み屋の台に両肘を突いて、左手でお猪口(ちょこ)を口に運びながら右手であんこう鍋の肝を箸で突っつくことになるか、時間だけがきめてくれるような不思議に宙ぶらりんな状態に置かれるような楽しみがある。

=== 以上、抜粋終わり ===

どうです?この文章。内容が和洋折衷。著者は今、どこで飲んでいるのか。パラレルワールド、な、つまり「マトリックス」のキアヌ・リーヴス状態です。夢かうつつか・・・ですね。ほらね、だから、この本は、酒に合うんですよ~いや、ホントですって。ちゃんちゃん。


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今週1週間で読んだ7冊のエッセーです。色川武大さんと吉村昭さんが良いなあ、と思ったのであります。 [本]

今週、読んだ本について書きます。

天邪鬼なワタクシは、話題の本、〇〇賞を獲った小説、ベストセラー等に興味がございません(お、自慢げだ!)。「世間が持ち上げる本」を読んでツボにはまったことが無い。だから読まない。単純明快な偏屈オヤヂであります。

さて、今週読んだ「小説」のハナシから始めます。短編ばかりです。近頃、何事にも根気が続かず、長編小説を読む気が起きないのです、情けなや、嗚呼。

まずは「ジキル博士とハイド氏」「宝島」で有名なスティーヴンソンさん(1850~1894)の短編集(岩波文庫)。収録7編のなかで「天の摂理とギター」なる作品が気に入りました。主人公は、イギリス版フーテンの寅さんというべき、芝居がかったお人好しで、お馬鹿だけど、なぜか出会うひとに幸せを与える。そんな彼と妻によるナンセンス話です。明るいハナシなのに、底流に悲哀味があるのが良かったです。

小説、もう一冊は、SFアンソロジー「きょうも上天気」(角川文庫)。こうゆう企画だとフィリップ・K・ディックさん作品は必ず入りますね。しかし、私は、20年ぶりに再読したロバート・シェクリイさんの「ひる」がツボにはまりました。漢字だと「蛭」です。好きなんですよね、こうゆう「ウルトラQ」っぽいSF。石坂浩二さんのナレーションが欲しい。宇宙から地球に落ちてきた小さな「ひる」状の物体。周囲の物質をエネルギーに変換しながら巨大化します。やがて直径100キロに広がり、なおも拡大を続けます。軍のミサイル、原子爆弾さえ「ひる」にとっては栄養源で、むしろ成長が加速。このままだと地球はまるごと「ひる」に呑みこまるぞ!どうする!?ってなもんです。この先はネタばれなので書くのは野暮ですね(まあ、予想通りのオチ、といえばそれまでですが)。

「小説」に気が乗らなかったワタクシ。埋め合わせに1日1冊のペースで計7冊の「エッセー」を読みました。エッセーに読後感も変ですが、勢いで書きましょう。

1冊目。ツボにはまりましたねえ。故 色川武大(いろかわたけひろ)さん著「うらおもて人生録」(新潮文庫)です。別名義(阿佐田哲也)で発表の「麻雀放浪記」シリーズのみを知るワタクシ。色川さんの純文学作品、エッセーともなじみがなかったのです。

で、このエッセーはステキです。内容は過激ですが、すーっと読み通すことができました。戦時中からドロップアウトし、バクチで生きてきた色川さん。その落ちこぼれ人生を振り返り、「劣等生へ贈る言葉」をつづったのがこの本。何が良いか、と言えば作家的虚栄心がないこと。無頼を気取ったり、エキセントリックぶったりしない。というか、色川さんの体験が十分刺激的だから虚飾など不要なんですね。

ワルぶらない色川さんは、モノゴトへの視線もニュートラル(公平)。「弱者の味方」ぶって、制度や世の中を熱く批判するヤツがいるでしょう。あれはどうも嘘くさい。売れないロックシンガーみたいでね。色川さんにはそんな嘘がないのです。たとえば「学歴について」の章、色川さんは、学歴が人間の価値を決めるものではないと認めつつ、「世間から学歴というパスポートは無くならない。人を雇う側からすれば、『保証』がほしいから。そりゃあそうだよ。」と、現実に対してクールなんです。

と思えば、「丁」「半」に金を賭ける古典サイコロバクチに勝つ方法や、そこから「賭け事のツボ」と論を展開するあたり、色川さんの面目躍如で、わくわくしました。正論かざしては怒ってみせるバカ作家と、一線を画す奥の深いご意見にじーんとした次第です。ありがとうございました!

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2冊目にいきましょう。

無頼つながり、ではありませんが、2か月前に69歳でお亡くなりになった白川道(しからわ とおる)さん著「俺ひとり ひと足早い遺書」(幻冬舎文庫)。ご自身の破綻的性格を臆することなく暴露して、それゆえ招いた不幸の数々、現在(執筆当時)の人生観を、遺書のごとくつづる、という赤裸々エッセーであります。

白川さんって、金使いの豪快さもさることながら、やることが、あまりにぶっ飛んでて、もはや「別世界の生き物」です。それゆえ、著者への共感は限りなくゼロで、「こんな人でも生きていける日本はスゴイ」と妙な感慨に浸ったのであります。自分を卑下しつつ、けっこう上から来る文章ですが、白川さんなら問題ございません。ま、エッセーというより自伝的小説というべきでしょう。

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3冊目はうってかわって常識人、そして努力のヒトのエッセー。名文の小説に、いつもホレボレする故吉村 昭さんの「街のはなし」です。ワタクシの求める「散文」の理想がここにある!文章ひとつひとつが彫琢され、無駄が無く、品を失わず、力強く、そして温かみに満ちた、この驚異の技はいったいなんでしょう。吉村さん、中野孝次さん、辻邦生さんの名文を読んだら、恥ずかしくて文章なんて書けないね(と言いつつ、平気でブログ書いてるけど)。

日々の出会いなどフツーのデキゴトをつづるだけで、吉村昭さんの人間性が、じわああ~とにじみ出してくる名エッセーです。吉村さん好きのワタクシとしては、これぞ必読の書!であります。

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4冊目です。「鴨川ホルモー」「「プリンセス・トヨトミ」「偉大なるしゅららぼん」など変化球系の小説を書かれる万城目学(まきめ まなぶ)さんのエッセイ「ザ・万歩計」(文春文庫)です。話は逸れますが、万城目さんと聞くと、俳優の濱田岳さんを連想します、そりゃあ無理ないですね。ホルモーーしゅららぼんーーっすから。

さて、万城目さんが本作を書かれたご年齢は30代前半。執筆依頼した編集部の意向もあるでしょうけど、本作は、その年齢の作家にありがちな、まさに「定型エッセー」です。面白く読ませようと、ハナシを盛って、ちゃらけた感じで展開する、アレです。ちょっとドジでダメな自分(の昔話など)を小出しして、自虐を交えるスタイル。書評で「軽妙」なんて評されますな。一昔前は、原田宗典さんのエッセーがその代表格でした。

残念ながら、50代半ばの偏屈オヤヂ(=ワタクシ)には、面白くもなく(じゃあ読むなよ、というハナシだけどね)、批判気分が頭をもたげてしまう。著者が「昔クラスにいた頭のいいやつ」をネタに、「頭の良いヤツは違うなあ~」みたいな記述に出会うと、「そりゃアンタ、皮肉かね?」と感じちゃう。

ただし、万城目さんVSゴキブリの死闘ネタは、「Gが大嫌い!」の本心本音が炸裂しており、その箇所だけは腹の底から本物の、出色のできばえであります。その話だけでも、購入価値のある一冊といえませう。あ、誉めてないね。

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5冊目です。体質に合わない作家に続けて挑戦する私も、どうかしていますね。群ようこさん「ぢぞうはみんな知っている」(新潮文庫)であります。

正直、ぜんぜんダメです。脳がまったく受け付けません(それでも全文、読みました)。群さんは悪くないし、この手の「怒りへの共感誘導型」エッセーは女性にウケるんだろうなあ、と推察しつつも、「不愉快なことを、不愉快なままに書く」、そのノリ、その品性が苦手です。群さんは、文章のプロですから、断片的なおっさん愚痴レベルではなく、筋のとおったストーリー展開にしているわけですが、逆にいえば「愚痴レベルを、強引に作文に仕立てた」みたいで、うへええ、と思ってしまう。世の女性たちは、こうゆうエッセーを読んで「スッキリする」とか「面白がる」のでしょうかね。

本1冊の返却処理をミスった「くらい」で、群さんに、ボロカスに書かれた図書館職員さんに、むしろ同情しちゃいます。誇張はあるでしょうが、相手を土下座させそうな勢いですよ。読んでて背筋がザワ~ッとしました。いやだなあ、この感じ。群さんのエッセーは、今後、二度と読まないから問題ないですけどね、はい。

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6冊目です。愚痴エッセーの流れではないですが、愚痴どころか全編「恨み節」に彩られている驚異の作品です。フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーさん著「孤独な散歩者の夢想」(岩波文庫)であります。

名著(迷著)です。「自分は良い人間なのに、世間が私にどんなヒドイ仕打ちをしたか」「こんな孤独な境遇に置かれねばならないのか」と、理不尽への憤りをねちっこくぶつける、ニーチェ的にいえば、人間的なあまりに人間的なエッセーであります。内容真偽はともかく、そのしつこさに「偏執狂」「被害妄想」という言葉が思い浮かぶほど。

ただし、私が「これだあ!」とはまったツボは、本の論旨そのものではありません。ときおり登場する「名言」なんであります。ポストイットを貼りつけておきたい「良い事」をおっしゃるんですね。さすがはルソー様。いわく、

・ 老人が勉強することが、もしもあるとすれば、それは「死ぬこと」だけだ。

・ 自由とは、欲することをできる、ことではなく、欲しないことをしない、ことだ。

だんだん禅問答となっていくのが、テツガクつうもんですかね。嗚呼。

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最後、7冊目です。懐かしいなあ。村上春樹さん(文)と、昨年、お亡くなりになった安西水丸さん(画)による「ランゲルハンス島の午後」です。題名からしてスゴイですよね、ランゲルハンス島ですよ!これ、ヨーロッパの絶景島ではなく、所在地は人間の膵臓(すいぞう)です。この題名が許されるなら、「ヌクレオジドリン酸の朝」「モホロビチッチ不連続面の夕焼け」「ブッフホルツ継電器の日の出」とか、いろんなヴァリエーションが出来そうです。

本の中身ですが、まさに村上春樹さんのお書きになるエッセー。自然体でありながら、旅や音楽、芸術への造詣の深さが垣間見える。しかし決して、押しつけがましくないフワリとした感じ。ほら、言いたいこと分かるでしょう。時代や流行に左右されない自由人の視線、カッコイイですね~。同じようなことを、田中康夫さんが書いたら「ゲエッ」と思うのに、村上春樹さんが書くと違和感や抵抗感がない。なんなんでしょうね。なんとなく滝川クリステル、なんのこっちゃ。

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以上、とりとめなくかつ脈絡なく、今週読んだエッセー本7冊を書き切ったところで今日はお終いっ。チャオウ。


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ヴァージニア・ウルフ短篇集。35年たってやっと腑に落ちた、あの名作映画についても・・・ [本]

2015年2月。

書き始める前から、話が散らかること確実なネタを取り上げます。無謀にもブンガクのネタ、いっちゃいましょう。これがお題(本)であります。

ヴァージニア・ウルフ短篇集(ちくま文庫)であります。どーん。

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みなさん。ヴァージニア・ウルフ、と聞いて、何を思い浮かべるでしょう。ワタクシは、これ、であります。「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

1966年のアメリカ映画。エリザベス・テーラーさんが二度目のアカデミー主演女優賞に輝いた名作。ちなみに監督はこれが映画作品初めてのマイク・ニコルズさん。本作の翌年にダスティン・ホフマンさん主演の「卒業」を撮って人気監督になっていく方ですね。

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映画タイトルに思いっきり「ヴァージニア・ウルフ」という固有名詞が入っています。このタイトルはなんぞや?劇中では、歌詞「悪いオオカミ」の箇所を、ヴァージニア・ウルフに置き換えた替え歌で登場する(らしい。覚えてません)。なにせワタクシ、この映画を観たのは35年前。「ヴァージニア・ウルフってなんだ?」という素朴な疑問はインターネットもない時代ゆえ、解くことままならず、今となっては失笑の極みですが、

「ヴァージニア州に生息しているオオカミなんだろう」

と北海道ヒグマ的な推察をした次第。嗚呼、オレってなんというバカだ・・・。救いといえば「千代の富士だとは思わなかった」ことでしょうか(すいません。話をややこしくしてますね)。

正解は、天才と呼ばれたイギリスの女流作家、ヴァージニア・ウルフ(1882~1941)さんのこと。ちなみにラストネーム「ウルフ」は、オオカミ=Wolf、ではなく、Woolf、とスペルが違うそう。カタカナ表記ではわかりっこないわなあ。はは。

さて、ヴァージニア・ウルフさん、ちょっと精神を病んでた方で、その影響かは分かりませんが、作品が実にユニークというか奇妙なのです。お、やっと文学の話になってきた。今回読んだ「短篇集」でも、その特質はいかんなく発揮されております。

いったい何がユニークか。ストーリー小説に慣れた読者には想像がつかないと思いますけど、ヴァージニアさんの小説は基本的に「何も起きない」のです。一般に小説って、第三者に説明できる、なんらかの事件が起きる、または主人公の強い感情(愛、失恋、嫉妬、後悔、怨み・・・)がストーリーとして描かれますよね。ところがヴァージニアさんの小説は「意識の流れ」という手法にのっとり、さしたる脈絡なく気の向くまま着想が変わります。「気分しだい」をそのまま表現してるんですね。

起承転結というドラマ性はほとんど失われ、とりとめない印象になります。したがってヴァージニアさんの小説の内容を、未読のヒトに伝えるのは至難の業です。ストーリーらしいものが無いのですから。「で、それがどうしたの?」という反応しか得られません。実際に読んでいただくしかないわけ。わかりますか、この感じ。

「短篇集」に収録されている「壁のしみ」という作品を例にとりましょう。著者自身のような、病んだ女性が主人公です。彼女は日々、部屋の壁の、同じ箇所の、同じしみを、ああでもないこうでもないと吟味・考察します。ある日、しみの色が変わって見えることがある。ある日、しみ部分が凹んでいるように見える。しみ。しみ。しみ・・・。その、しみへのパラノイア的集中・・・。もはやカフカの不条理小説や、幻想小説の領域ですね。いったいこの小説、どこへ向かって行くのか?

アラン・ポーであれば壁の中から女の腐乱死体と黒猫が出てくるでしょう。エラリー・クイーンであれば壁の裏に隠し部屋があるでしょう。でも、この小説にはそんな劇的「オチ」はございません。しかし、ある意味、腐乱死体以上に驚くべき結末なのです。(これ以上は書かないほうが良いね)

いやはや、参っちゃうなあ。特殊な破壊力つうか。自然体でこの境地に達した小説は、尾辻克彦さんの芥川賞作品「父が消えた」くらいか?(って、その比較もナンですがね)。

ヴァージニアさんの功績は事件が起きずとも、意識の流れを追うことで小説作品が成立することを示した点でしょうね。事実、この手の作品はその後、次々生まれています。以前、当ブログで紹介した百年文庫「窓」に収録された神西清さんの「恢復期」はその典型でしょう。埴谷雄高さんの「死霊」も、梶井基次郎さんの「檸檬」だって、言ってみりゃあ何も起きてませんもんね。

さて、ここからがいよいよ本題です。って、いままではなんだよ!

映画「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」に話を戻します。

拝見してから35年目にして、やっとこの映画が腑に落ちた、ということを申し上げたいのです。

「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」はリチャード・バートン扮する大学教員と、エリザベス・テーラー演じる妻との強烈な罵り合い、あてこすり、が描かれます。その他、夫婦騒動に巻き込まれる、家を訪れた若いカップル(なんとジョージ・シーガル!)がいて、登場人物はこの4名だけ。そしてたった一晩の出来事が描かれます。観ているこっちが人生に絶望しそうな、罵倒&罵倒の嵐に、いったいこの映画はどこへ行くのか?(さっきも同じようなセリフありましたね)

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サム・ペキンパー監督なら夫が妻を散弾銃で殺す。ロバート・ベントン監督なら夫はだまって家を出る。デヴィッド・リンチ監督なら夫は妻を意識外に追いやってしまう。いやいや、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」は、そのどれでもない意外?な結末に至ります。

35年たって、私が腑に落ちた点は、この映画に登場する「想像上の子供」というキーワードです。これ、まったく何だか分からなかった。そこで「ヴァージニア・ウルフ短篇集」です、その最初の小説「ラピンとラピノヴァ」を読んで、おお、これだあ!とツボにはまったんです。ヴァージニアさんらしく事件らしい事件は起きません。主人公であるドリーミーな新婚女性が、自分と夫をうさぎに見立てて想像の「王国」を作るんですね。で、ラストで王国のうさぎが消える、それと同時に「結婚生活は終わる」のですが、その部分。

私はこう思ったんですね。この短篇小説の「うさぎ」が、まさに映画の「想像上の子供」に呼応しているのではないか。

さらに小説では、うさぎが消えて「結婚生活は破綻」しますが、映画は(あれだけ夫婦が罵倒しあったのにもかかわらず)希望を残して終わる。さらに、私は腑に落ちたわけです。まさしく、これこそ、

ヴァージニア・ウルフなんかこわくない!

のだと。どんなグチャグチャで悲劇的な人間関係であろうと、それを乗り越える希望は、どこかにあるよ(あるはずだ)というかすかな光。そこが他の罵倒系映画、たとえば「欲望という名の電車」と決定的に異なるのであります(話を広げちゃいました)。

ヴァージニア・ウルフがこわくないとすれば、いったい何が怖いのか。そりゃ、映画「めぐりあう時間たち」(2002年)において、つけ鼻メイクでヴァージニア・ウルフさんを演じ、アカデミー主演女優賞をゲットしたニコール・キッドマンさんでしょう!(グレース・ケリーを演じるよりは似合っておりますが・・・)

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この映画も良いのです。ダロウエイ夫人は「自分で花を買いに行く」と言ったのです。花は自分で買わなくてはいけません、ぜったいにそうなのです。(ここまで来ると、書いてるこっちも好き勝手ですな)

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どんどん話は散らかりますが、この映画で絶対的名演技を見せたのは、トリプル主演の3名(ニコール・キッドマン、メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア)より、エイズで死まじかの男を演じたエド・ハリスさんではないでしょうか。なぜ彼が、この映画でアカデミー助演男優賞を取れないのか?壁のしみ、も気になりますが、私はそのことが凄く気になる。

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以上、今日は、「意識の流れ」の手法で、ブログ記事を書いてみました。

あんのじょう、結果はボロボロですね。でもいいや。こうゆうの面白いねえ。チャオー。


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北海道 苫小牧出張 ホテルで読む「方丈記」がよろしい・・・のハナシ [本]

出張で北海道の苫小牧、に来ております。

先週の札幌から、1週間もおかずに北海道再訪であります。日頃の行いがよいワタクシなので、今回も天気がよい。実に穏やか。1月の北海道とは思えぬ暖かさ。道路は溶けた雪でぐちゃぐちゃだけど・・・。

さきほど苫小牧のホテルに入り、荷物を部屋に置きました。さあて、苫小牧の街で酒でも飲むかあ・・・と、ちょっとだけ思いました。でもねえ、北海道の夜はさすがに寒い。粉雪が舞ってます。「こなあ~ゆき~♪」とレミオロメン的に、歌う気分でもなく。

そもそも、ひとりだと興が乗らない、酒を呑む気が起きないなあ。

てなわけで、街へ出るのはやめ、ホテルの部屋で、持参した本を読みます。今日の本は、

鴨長明(かものちょうめい)さん作「方丈記」。

泣く子も黙る(黙らないか)、13世紀の名エッセイであります。

原文に添えられているのが、中野孝次さんによる現代語訳と解説。本の題名が「すらすら読める方丈記」ですからね。

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方丈記といえば、冒頭の有名な文章、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」、であります。

「歴史の教科書に載るような有名本だから、さぞかしツマランだろう」と、色眼鏡しちゃう人も多いでしょうが、それ大きな誤解です。とんでもございません。800年以上も昔に、こんなに人生を突き抜けたハイパーなオヤジ(60歳)がいた、それだけで嬉しくなりますよね。

乱暴にまとめると、鴨長明というオジサン、和歌と楽器の名手なんだけど、若いころの不運(自業自得?)がたたって落ちぶれ、老年は山の小屋(自分で建てた)で一人っきりの隠遁生活をしてるわけです。完全に悟っている、といっても宗教的な意味ではなく、「おれは好きでこうしているのさ、それがどうしたあ!」と、世俗のシバリから完全自由人になってるわけです。

その生き方が良いか悪いかは別として、あまりに見事な達観っぷり、生来の観察眼、粉飾を加えない率直な物言いの名文に、終始、圧倒されるわけです。

碩学の中野孝次さんが的確に指摘するとおり、方丈記は、よく言われる「無常の文学」ではなく、「数寄(すき)の文学」なんですね。

数寄=変わり者で偏屈、しかし世間に流されない確固たる価値観に生きる自由人。

といいましょうか。繰り返しますが、究極の自由人なんです、この人。まあ、ワタクシごときがわかったようなことを言っちゃあいけませんが、ひとつ言えるのは、

ワタクシも50歳半ばになり、人間の命の有限性、つまり「余命」を意識するわけです。ここにきて「人生に迷う」面が無きにしも非ず、です。「方丈記」は、そんなワタクシに、ある作用というか、方向性のひとつを与えてくれる名著なんですね。

10代の若者なら、J-POP楽曲の「君は君のままでよい」だの「君はひとりじゃない」だのの紋切りフレーズに後押しされるのかもしれませんが、50歳過ぎのわれわれはそれほど単純じゃない。ワタクシの場合、古典、そのなかでも、説教くささがゼロの「方丈記」に、というか、著者の鴨長明さんに親近感を感じます。その世界観、人生観にあこがれるのであります。

長明さんいわく、 

しっかり念仏を唱えて、修行をしなきゃあ幸せになれない、つうなら、おれ、そんな幸せ要らんよ。好きな和歌をうたい、音楽を奏でて暮らすぜ。誰に何の気がねもしない、これがおれの幸せ、おれの人生だもんね、ははは。

・・・と、意訳が過ぎましたが、こんな長明さんのお言葉が、中年すぎのサラリーマン(私のこと)の心に響くのであります。

苫小牧の夜、ビジネスホテルの部屋で、方丈記で楽しむ。いいなあ、この状況。何が良いのかは私にも分からんけど。

今日はこんな感じでおしまいです。ちゃんちゃん。


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