上野で「ムンク展」を拝見。大盛況はけっこうなことですが・・・ [絵画]

2018年12月。

先月半ばから、ほぼ毎日出張という、年末バタバタ状態に入っております。前記事で紹介した熊本県水俣・八代出張から戻ると、神戸(日帰り)、そのあと熊本市(1泊)、翌週は札幌(1泊)、いったん戻って宮崎県→鹿児島県、次は福島県、三重県、宮城県仙台・・・と日本全国サイコロ旅であります。50代も半ばを過ぎると、北と南の温度差に体がついていけるか心配。。。ま、いいか。

などと、忙しさ自慢をしたいわけではなかった。

東京都美術館(上野)で開催中の、ムンク展、に行ったハナシです。展覧会ポスターには、当たり前のように、あの方がフュチャアされております。

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きゃーーー、というよりは、あちゃーーー、と叫んでいる「叫び」でございます。やっぱり、この絵なのかね。でも、ムンク=叫び、という紋切り発想もそろそろやめてはどうか。

といいますのは展覧会を拝見して、ワタクシ、つくづく思いました。ムンク作品の白眉は油彩よりむしろリトグラフや木版などの版画や、線描の作品だ、と。

定番ながら、たとえば「病める子」の繊細な線は素晴らしいですよね。油彩の雑な仕上げ(失礼)とは異なり、ナーバスな線が重ね合わされた光と影の世界には静かな悲しみが立ち上っています。ここがワタクシのツボなんです。

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単色線は、水が流れるかのよう。魅力的だなあと思ってしまう。

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さて、上野の会場には、老若男女どえらい数の客が来ておりました。会場に入るまでの待ち時間20分。これら観客のなかには修学旅行か学校行事か、中学生、高校生がたくさんいました。で、分かった顔してエラソーに言わせていただくと、10代の子供にムンクの絵画を見せてもしょうがねえ、と私は思う。もちろん、彼らが自発的にムンクを観たいなら意味がありましょうが、「学校行事」として、つまり「有名な絵や、有名な画家だから」という理由でムンクを鑑賞させる、という指導的発想なら、そんなくだらん行事はやめたほうが良い。

そりゃそうでしょう。

彼の描く絵は「美しい」とか「上手い」という類ではありません。描かれているのは、不安、であり、恐怖であり、絶望、という負の感情であり、それをとおりいっぺんの技法ではなく、彼独特の「象徴」として描いたところにツボがあるわけです。だから、表現は「叫び」のようにキテレツで、色も奇妙(微妙)、タッチは荒々しかったりするのです。

何を言っているかというと、ムンクの絵画はダ・ヴィンチや、フェルメールのそれのように、絵自体として素晴らしいのではなく、そこに描かれた情念が見る側のココロに呼応しないと、なんの価値もないということ。

たとえばベットで泣く娼婦を描いたこの作品。わんわん泣くしかないほどの悲しみの経験がない人間にとって、この絵は、ああ泣いてる女の人だ、服着ないと風邪ひくよね、程度の感想しか出ようがありません。

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同様に「叫び」のヴァリアントでもある、人物が橋にたたずむこの絵はどうか。やり場のない絶望感や不安を感じた経験のない人間には「これなら俺でも描けそう」くらいの感想しか出てこんでしょう。

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要するに、見る側に、ムンクの描く精神世界に感応できる実体験や感覚、あるいは想像力がなければ、ムンク作品(とくに油彩)は、ただのヘタッピの絵、つう評価になっちゃいます。

10代の子供たちにも苦労人はいるでしょうけどねえ、一般的にそうした奥底感情や機微がまだ分からない(経験がない)子供たちですよ。経験のないところに、ムンクを見せたところで、むしろ作品が戯画化されて脳内に刷り込まれるだけで、良い効果は何もないと思う。有名ゲージュツ作品なので、誰にとっても絶対的に価値がある、のではなく、やっぱりモノゴトには順序つうもんがあり、ある程度の年齢と経験を重ねないと、対象の良さや凄さが分からん、そんな世界があるもんですよ。それが、クラシック音楽であったり、ムンク、アンソール、エミール・ノルデやフランシス・ベーコンの絵画だと思うのですね。

おっと、ハナシが上から目線になったので、最後に、ワタクシがこの展覧会で、あちゃ、と思った作品を取り上げます。

どうですか、これ。ワタクシ、こんなイメージを持ちました。

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左下の頭を抱える男性は、たぶん、こう言っております、「あちゃあ~、酔った勢いで、女房の女友達と寝ちゃったわ~、やっべーーー」。ほうら、10代の子供たちよ、この絵をしっかりみて、今後の人生に役立ててくれたまえ。要するに、

酒と女には気を付けろ!

ってことだわね~。おいおい、最後はそんな俗なハナシかよ。ちゃんちゃん。

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