発表用パワーポイントの「見栄え」はスゴイけど、中身ぐだぐだのプレゼンが横行する悲しみ。 [雑感]

2015年2月。

本日、私が書こうとしているテーマはチマタでよく語られるので、エラソーにブログで取りあげるのもナンですが、最近ゲンナリというかトホホ気分が加速しているので書きたくなりました。

世の中には複数聴衆への「発表」「説明」いわゆるプレゼンテーションという行事があります。製品のお披露目、企画書説明、学生へ会社説明、学会発表、社内打合せ、研修や勉強会などなど場面はさまざま。ワタクシも仕事柄、年に数回は学会講演、教育などでプレゼンをやっとります。

俎上にのせたいネタは「発表用の資料」です。ホチキス止めして配布する紙資料じゃなく、プレゼン時にスクリーンに映し出すアレ、です。ひと昔前は透明OHPシートに手書きや印刷して作ってました。いまやOHPマシンは姿を消し、マイクロソフト社のソフト「パワーポイント」、いわゆるパワポが標準化しています。パワポで作ったPPTXファイルをプロジェクターでスクリーンに映し、スライドショー機能でプレゼンするのが定番の電子時代であります。

猫も杓子も(←なんという古典的表現だ!)パワポ、パワポ、でございます。ちなみに、こうしたソフトを駆使して、嘘をホントに見せちゃう名人を、2014年から「小保方さん」と呼ぶようになりましたね。

さて、昨今のパワポ資料。文章、写真、表、グラフをベタベタくっつけるだけでは飽き足らず、派手な色使い、アニメーション機能をぶっこんで、出来栄え(見た目、という意味)がスゴイことになっておりますなあ。

素晴らしい見識や成果を、それに見合った素晴らしい表現(パワポ)でアピールするのは良いのです。しかし、ものごとには限度があるだろうよ、と申し上げたい。いまやプレンテーションは、内容の勝負ではなく、パワポの「見栄え」を競っている感が無きにしもあらず。

あまりにも凝ったパワポはプレゼンの本質=「言いたいこと」をボヤけさせたりもします。アピールポイントはいたってシンプルなのに、余計な装飾でくどくど飾りたて肝心の主題が薄まってしまう。いや確信犯的に「ポイントをぼやけるように」しているのかも?悪く言えば、内容のレベルの低さを、体裁で補っているのでは?と邪推しちゃいますよね。

考えたいポイントはこれ、であります。日本人はプレゼンのとき、どうして異常なくらいにパワポの「見栄え」に凝っちゃうんでしょうか?

このテーマをパワポで発表するなら、こんな感じすか?シャレで作ってみました、ははは。

PP001.jpg

問題の背景を、ワタクシなりに整理したのであります、えへん。以下シート参照ください、えへん。(プレゼンしている体で)

PP002.jpg

パワポ遊びにも飽きたので、本論に戻りましょう。

「見栄えパワポ」が氾濫した原因(背景)には、上シート記載のとおり「①ソフト(パワーポイント)の高性能化」もひとつ、ではあります。しかし主因は日本人独特の価値観=「② 内容の優れたものは、見栄えも良いはず」という思い込みではないでしょうか。美味しい和食は、盛り付けが美しい「はず」だし、性能の優れた車は見た目もカッコいい「はず」。ここから帰納されるのは「素晴らしい成果を発表するなら、素晴らしいパワポが必要だ」というロジックですね。

さらに勢いがついて、手段が目的を通り越したのが「見栄えパワポ」の氾濫ですね。

「立派なパワポさえ作れば、素晴らしいプレゼンになる」という本末転倒の、おおいなる誤解

プレゼンとは当たり前のことですが、パワポではなく「人間がする」ものです。ところが、あまりに凝ったパワポを作ってしまうがゆえに、道具としてパワポを利用するべき人間(発表者)が、「パワポに説明してもらう」という陥穽に陥ってるんです。この違い、分かりますよね?

はじめに人間が行うべきプレゼンという行為があり、パワポは、あくまでも「より理解しやすくする補佐」なんです。それをはき違えて、パワポさえ整えば、プレゼンまでうまく出来た気分になる。まるで試験前に、友だちのノートをコピーしただけで、試験勉強を終えた気になるのと同じですよ。

その結果、パワポはたいそう立派だけど、プレゼンはぐだぐだ・・・という無残な光景が展開するのであります。

誤解なきよう、再度、強調しますが私は「立派なパワポを作ることがいけない」と言ってるのではありません。パワポに凝りすぎて、本来のプレゼンテーションがおざなりになったら、なんのためのパワポか分からんでしょう、という事を申し上げたいのですね。

ついでに言えば「そのプレゼン(会合)に、そこまで凝ったパワポが必要なのか」を考えるべきです。日本人は、社内部門ミーティングや、上司への説明にまで、信じられないような立派な資料を作る傾向があります。もしも、そのエネルギーを本来の方向、たとえば、メーカーであれば「対外的な販売資料つくり」に向けたら、どれだけ成果が上がることでしょうか。

要するに、プレゼン資料は、場面や相手に応じてレベルを加減して「やりすぎ」(による時間の無駄)をしないよう自らを律するべきなんです。

余談ですが、ワタクシの高校時代の同級生Nが、アメリカの半導体研究所に勤務していたときの話。実に象徴的です。Nの勤務する研究所は、月2回、研究員がミーティングルームに集合して、研究進捗状況を発表し、互いにアドバイスしたり意見を述べ合うそうです。勤務したばかりのNは日本人の凄さを見せようと張り切って、見栄えの良いプレゼン資料(パワポ)を作りました。ところが、それを使って研究状況を説明したところ、周囲はドン引き。だって、N以外の所員のプレゼン資料はパワポどころか、フリーハンドの殴り書きだという。ヒドイやつなんて、文字が読めないくらい汚い(とNは思ったそうです)。

一方、N以外の研究員からすれば、論文投稿でもなく、学会発表でもない、所内ミーティングごときに、なぜ立派な資料を作るのか、さっぱり分からんよ、というわけ。そんな時間があるなら、研究そのものに使うだろ?と、至極まっとうなご意見なんです。「なんでもかんでもキレイに作れば良い」のではなく、そうすべきとき、としなくて良いときを使い分ける、つう合理性ゆえの発想ですよね。

しつこいですが日本人は逆なんですよ。「内向き」(社内向き)に立派な資料を作るくせに、外向け資料は手抜きで杜撰でズブズブの体たらく。いったい、何を向いて仕事をしているのやら・・・と、まあ、結局は日本人の特質である「子分体質」=「親分(上司やTOP)にはヘーコラするが、それ以外は手抜き」という様相が透けて見えるわけですな。

ああ、ゲンナリだ・・・。

お、プレゼン用のパワポの話が、ずいぶん広がってしまった。私もこんな駄文を書いていないで、3月の学会発表のパワポを作り始めないといけないのだった。毎度毎度、パワポに手が付かず、発表前日か当日に作ってますが、良い子はそれじゃいけません。なにごとも計画的に。反省したところで、本日は以上!


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