いまどきの20代の若者は・・・というオヤヂの戯言。 [雑感]

「今どきの若いもんは・・・」ってオヂサン得意の口癖は、2000年以上前のギリシャ時代からあったそうですね、ほんとか嘘か知りませんが。

いつの時代も、若者VSオヂサンの世代抗争(おおげさ?)は存在していたわけです。

なーんて書いてる私、自分が「若者側」とは絶対にいえません、そう、アラフィフ、というのはアラウンド・15、ではなく、アラウンド・50、であるからして、もう立派すぎる「オヤヂ」なのである。ふふふのふ。

本日はオヤヂの戯言シリーズ、ギリシャ時代からの伝統行事=「私が最近感じる、20代の若者の特質」をアトランダムに書いちゃうというベタ企画であります。若者との接点といっても、私の場合は、あくまでサラリーマンの先輩~後輩関係からの目線になっちゃいますが、その点はご容赦を。

実は私、最近の20代の若者に対し、それほど違和感はありません(ふふ、若者ぶってみたぜ)。むしろ、25年前の20代の私にくらべ、はるかに「今どき」の若者が優れているように思いますね。

言ってる内容はイマイチでも「自分の意見をきちんと言える」のは立派です。そして(ある意味、欠点でもあるが)年配者に対し、不必要にビビらないし、排他感は少ないです。私たち(あえて複数形)の入社当時(25年前)は、モジモジ~、グズグズ~と冴えない雰囲気、いかにも「右も左も分からないヒヨッコです、僕ら」って空気でしたもん。先輩との距離の取り方もよく分からず・・・。

最近の若者が、上手に自分を表現できるのは、受けた教育の方針(&環境)と、情報量の差、そこから生まれる価値観の違いと思いますね。

さて、いよいよオヤヂの戯言モードですが、「昔は」若いという理由で、年長者(親、学校の先生、部活の先輩、会社の上司etc)からボコボコ怒られ、罵られたりしたもんです。それって一種のお約束だったわけです。理不尽に叱責され、むかついた事も数知れません。でも世代間断絶(?)と無理に納得したものです。教師に殴られた話を、親に伝えたら、「お前、何やらかしたんじゃい!」と、今度は親から殴られる始末、結局なにやっても叱られっぱなしかよぉ~オレ、とほほ・・・みたいな。しかし、殴ることの是非は別として、こうゆう無茶な目にあったから、文字通り「打たれ強く」なり、かつ、「一概に大人が正しいわけじゃない」という世界観も身についたわけです。

21世紀も10年を過ぎた今、(理由が正当であれ)若者に対して、声を荒げて叱責した日には大騒ぎですよ。そいつは会社に来なくなるわ、やがて会社を辞めるわ、あげくに行方不明になったりと・・・。ヘンクツな私からみると「叱った相手に対しての当てつけパフォーマンス?」と勘ぐってしまいます。(事実、それをやりかねない、一部の若者もいるわけで)

あれれ、いつのまにか「今の若者の、負の側面」に話題は移行してますね。

ま、いいか。

今の若者たちの、概して人懐っこく、ソツなくコミニュケーションしている(少なくとも本人はそう思っている)裏には、未経験の「外圧」(指導や叱責)や、「マイナス評価」に対しては、おそろしく敏感で、かつ、ヨワッチョロイ側面が見え隠れしています。

まとめるのは乱暴ですが、25年前の若者(私のことです)は、たいした自信もプライドも持っていない、極論、失うもののない雑草的強さがあったわけです。対して、今の若者は無意識下に根拠のない「自分への自信(過信)」と「プライド」を忍ばせている。ひじょうに強く感じますね。

叱責や詰問、利害が反する相手とのアツレキといった「不測の事態」は、世間ごときは如才なく渡ってみせるとタカをくくっている彼らの、肥大した自己評価と、プライドをひどく傷つけるものなんですね。

学校教育で「個性の尊重」を刷り込まれ、自分の価値もっといえばアイデンティティ、を全く誤解しちゃてる。簡単に言えば、自分を「一人前」と思い込み、ゆえに自分の行動や考え方は、許されるべきものだという誤解です。それは自己評価ではなく、自己勝手な評価なんだけど、しょせんは、そんなものは砂上の楼閣であることを、頭でっかちゆえに理解できない。こうして、自分の正当性を確信しているので、不愉快な出来ごとは相手のほうが悪い、と自分を納得させようとします。が、そんな勝手は通用しません。

結果、アツレキの場から、とりあえず逃げる、という行動(発想)に走るんですよね。

逃げる、というのは、物理的意味だけでなく、対象(人間や業務)から精神的に逃避することも含みます。「自分(のプライド)を傷つけるかもしれない対象から離れる(あるいは否定する)」ことで、自己防衛しようという・・・まあ、そうした傾向は人間だれしもありますが、このケースに限っていえば「小学生じゃないだろが・・・」と呆れるばかりですよ。

繰り返しになりますが、今の20代は精神的には非常に弱いです(もちろん例外はあります)。その弱さの背景は(昔のように)無知、不安、低自己評価ではなく、逆に、根拠のないプライドと高い自己評価への依存であり、それを否定されると簡単に「折れて」しまうということなんですね。

ハナシは脱線します。大きなお世話でしょうけど、草食系男子なんてネーミングって、優しく毒気がなく肯定的にみえますが、私にいわせりゃ「草食系にならざるをえない」、つまりは消極的理由で草食系だという若者がわんさかいると思います。たとえば女性とセックスするためには、気がついたらベットにいたなんて夢物語はありえず(山本モナと二岡かよ!)、一般的には、相手へ好意を示すことからはじめて、「その旨申し入れ」、相手からの「同意」を得て、ラブホテルなどへ向かうと言う積極的な行為が必要です。

かなり気合と勇気がいるし、断られたときのバツの悪さ、その後の人間関係・・・こうしたハードルを乗り越えなくてはいけません。自分を傷つけたくなければ、そんな面倒な手続きから逃げるのは当然です。「ま、いいか、オレ、童貞でも・・・」。これぞ”結果的草食系男子”、とほほ。肉も食おうよ、若者よ!

話を戻しましょう。エラソーなアラフィフ・オヤヂの私から「若者」に言葉を贈ります・・・って、金八先生か、オレは!その言葉はこれです。

言動は、動機を強化する

有名人の名言なんかじゃなく、心理学の用語です。今回事例にあてはめると、「いやだと思って対象から逃げる行為(言動)を続ければ、いやだ、という動機がさらに強まり、結果、ますます対象から逃げることになる」という、負のスパイラルを説明しているわけです。

逆に、相手のことを好きで、相手に好かれようとふるまえば、ますます相手を好きになる。対象が人間でなく、趣味でも仕事でも同じですよね。

ということで、相手や対象を「いやだ」と思ったら、その負の気持に反する、むしろ打ち壊すような積極的な言動をすれば、かならず、その「いやだ」という動機は克服できます。

攻撃は最大の防御

イヤな相手(対象)から逃げず、積極的に向かいあう「行動」があれば、まったく違う世界観や価値観を見出すことができるんですね。その行為(での成功と失敗)を通じて、少しづつ、自分の「強さ」と本当の意味の「プライド」を持てると思います。

経験とはあなたに起きた出来事ではなく、その出来事に対し、あなたが何をしたか、なのである。(ハクスリー)

こうゆう説教臭い文章、実に良いですなあ・・・って、一番プライドが高いのは、もしかしてオレかよ!お後がよろしいようで。チャンチャン。


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