教育問題を考えてみました(その1 理系教科) [雑感]

骨の太~い岡山のシゴトが終わりました、久しぶりにしびれました。詳しいことは書けませんがハラハラドキドキした分、達成感が素晴らしい。この感覚を知ると、現場の寒さも精神的苦痛も睡眠不足も、簡単に乗り越えちゃうわけですね (ま、終わってみれば・・・ということですが)。

喜ぶ間もなく次に待ち受けるのは、あの件、あの件・・・うひゃ、この状態を世間では「貧乏、金なし」、じゃなく、「貧乏、ヒマなし」と言ってるわけです。だが今週は2回のクラシックコンサートを心の支えにまだまだ頑張るもんね~~。(って、どれだけノーテンキに元気なんだよ、オレ!?)

さて、突然ですが。

まじめに、ひとつのテーマを深堀りしようと、私のブログには珍しいシリアス企画?であります。政治や経済というのもなんなので、身近なところで「教育」について考えたい。今回は理系教科に絞って語りたいと思います。

4月は新入生や新入社員の季節ですね。どの学校、どの会社も、優秀な人材を求め苦労しています。特に、会社の場合は、社の未来(存亡)を若者にゆだねるわけですから、おおごとです。

ここで私が感じるのは、新入社員の学力、とくに、数学や解析力の問題です。

つーと、エラソーに聞こえちゃうかもしれませんが、まあ、聞いていただきたい。

私の勤める会社の場合、新入社員の大半が理系出身者、それも工学系です。彼らのことを「頭が悪い」というつもりは毛頭ありません。しかし「学校で何を勉強してたの?」と言いたくなる(私もオヤジやな~)場面はけっこう多いのです。

これは、学生さんの罪、というより教育の罪だと思うのです。

学生の「理系離れ」が叫ばれ久しいですが、そもそも日本の教育は「理科」や「数学」の面白さを若者に伝えきれていない、というか、完全に「ツボ」をはずした教え方をしているのです 。ここ、断言、です。ヨロシク。

たとえば、数学の「微分、積分」で考えましょう。

最近の教え方は知りませんが、わたしの高校時代(30年前)は理屈もへったくれもなく、グラフと公式で微分、積分を教え込まれたわけです。一応、微分とは「変化(傾き)」であり、積分は「積算(重畳)」という漠としたイメージは持てますが、その概念を自分のものとして理解、咀嚼させるのではなく、ただ公式を叩き込まれるのです。

こんなやり方で、数学(微分、積分)が楽しくなるなんて、ありえない話ですよ。

話を大きくしますが、そもそも「学問を学ぶ」とは何か?それは、物事をそのまま覚えることでは決してなく、「絶対」である理論や文化を、主観で捉えなおす、つまり個人が「相対化」する作業なのですね。

「あらゆる相対化の試みに耐ええた絶対」が文化(学問)だとすれば、学ぶというパーソナルな行為は、「絶対を、自分なりに相対化する」試みであり、妙な喩えですが、干ししいたけを、水で戻す手順が必要と思うのです。哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という名言の偉大さは、自分の意識を通じてしか世界をとらえることはできない、という、当たり前を指摘した点と思います。

この伝を、前出に置き換えれば「我思う、ゆえに微分・積分あり」なのですね。もちろん、私がいなくても、微分、積分は世の中に存在する。しかし「我」にとっては、我なくして、数学も何もあったもんじゃない。村上春樹の小説ではありませんが、自分がなければ世界そのものが無いのですから。「自分を通して、はじめて、対象は存在する」、これが実存であると。

話が横道にそれましたね。本題に戻りましょう。

微分・積分が実存として、つまり「個人の概念」となって把握されれば、世界観に取り込まれ、「根」から展開、応用して「花」が出来る、ということです。

そこで私は言いたい。

高校教育は「自分の言葉」微分・積分をとらえさせることから始めてほしい。(微積分に限ったことではありませんけど)。

では、私なら微分・積分をどう「自分の言葉」で表現するのか?これが正解ではなく、あくまで「私」というフィルターを通した概念ですが。

ここに、イヤな教師と、不良の生徒がいます・・って、喩え話で行っちゃいます。

このイヤな教師は、毎日ねちねちと、不良生徒にイヤミを言うわけです。で、「不良生徒の反応」を、微分、積分、比例、で表現してみよう、って試みです。

まず微分でも積分でもない、「比例」反応の場合。不良は、教師の「イヤミ程度に応じた」切り返しをする。小言程度の小さなイヤミに対しては、「けっ!」と切り返す。しつこい大きなイヤミには「このオヤジが!こらぁ!」とぶち切れる=大きく反応。うーん、分かりやすい不良です。

次は「微分」反応。この不良生徒はすごいです。微分とは「外からの刺激に急激に反応する」性質があるので、教師のイヤミがごく軽くても、「なんじゃ、そりゃーーー!」と胸倉をつかまんばかりに激昂するわけです。微分値が大きいほど、この反応(激昂)の度合いが大きい、ということですね。

最後は「積分」藩王です。この不良生徒は粘着質ですね~。積分とは「積み重ね」を意味しますので、教師からのイヤミに対して「比例」や「微分」と違って、生徒はすぐに反応しません。ふふふ、と薄ら笑いを浮かべています。ところが受けたイヤミを忘れずに心の中に「ためて」いるのです。そしてうらみが一定量たまったところで、突然、すごいエネルギーでどかーんと放出する!あぎゃー!

「積年の恨み」という言葉がありますが、この「積年」とはまさに「積分」なんですねえ(と私は考える)。

以上のように、数式(公式)だけでなく、自分にあった”感覚”で、微分・積分を捉えなおすと、はじめて「現場で使える」ようにできたと、自分自身は思うのです。

しつこいですが、「数学」「理科」を公式や数式だけで教えていては、理系離れになるのも無理がない。「意味」「概念」そしてあえて前出しませんでしたが、その理論によって得られる実践的「効用」を交えて教えることで、目からうろこが落ちるように学生に理系センスが生まれると信じています。

話は長くなりますが、あと重要なのは「感動」です。自分の言葉で把握できた理論には、必ず感動が伴います。微分ならば、それを発明したニュートン、ライプニッツ、ラグランジェの偉大さに感動するのです。

私が高校時代に感動したのは天文学者ケプラーの「恒星のまわりを回る惑星が作る扇形面積は、単位時間が同じであれば、位置によらず一定である」という「ケプラーの第二法則」。観察によりこの法則を発見したケプラーの偉大さに心底、震えるわけです。周知の法則も理論も「我」にとっては、知ったときが「初めての出会い」であり、そのときに、いかに個人の世界観に取り込めるか?がツボ、ということでしょうか。

すっかり長くなりましたが、次回は、理系教科以上に、ある意味、すさまじい問題をはらんでいる(と思う)、「国語」教育について考えたいと思います。ちゃんちゃん。


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コメント 4

azm

ども!とりあえずの激務お疲れ様でございました。
さて理系離れ、ゆゆしきことです。
そもそも理系、理学も工学も、自然の変化に対するたゆまない観察、好奇心がその基盤になけりゃ続きません。
今の学校ではその辺どうなっているんでしょ。教科書の字面を追うだけなんでしょうかねぇ。それじゃ、興味を持てるわけありませんね。
自然を観察すると、そこかしこに不思議が、謎が満ち溢れていて、なんで、なぜと知りたくなっちゃうのが本来の人の性な筈。前頭葉は好奇心を満たしてくれるものを餌にして活動しているんですから。(もちろんブドウ糖は必要不可欠)。そんな、なぜ?という自分からの気持から離れた理系教育はちょっと困りものです。理系が暗記科目になったらこりゃあかんです。門前さんの仰る通り、自分の感性で向き合うことがなければ、そのきっかけを与える教育でなければ、本来の教育ではないですね。教えるだけで、育てるところが欠如です。自分で考えて、それもなぜ?という疑問を自信で見つけられる力を育てないといけません。これは理系文系に限らずでしょうけど。
文科省もゆとり教育から決別ということらしいですが、どうなりますか?
たんに教えるだけでなく、きちんと考える力を養い育てる教育であるべきですね。
by azm (2010-03-31 21:12) 

門前トラビス

To azm様、コメントありがとうございます。
まさにおっしゃるとおりですね。理数系の科目を「暗記」しちゃう、この傾向は大問題です。それでは全く応用がききません。
azm様のコメントにある「なぜ?」という気持ちは湧きようがないですよね。暗記科目になぜ?なんて、いらんわけですから。
ご指摘どおり、「覚える」だけでなく「考えさせる」教育が重要ですよね~。

記事を書いたあとで、さらに考えたのですが、理系が苦手という人たちは、理系教科の内容の、「定性的」な部分と、「定量的」な部分を、切り分けることができないのではないでしょうか?
物事には、程度の差はあれ、常にこのふたつが共存しているのですが、モロ文系(と称している)人たちは、数学というと、イコール「数式」、それだけなんですよね。
数式の根底にある「思想」「理屈」には思いもよらない・・・数式とは理屈を普遍的な形に置き換えたものに過ぎない、という当然といえば当然のことを理解できないし、理解しようともしない。
これぞ教育のなせる悪しき結果。学校教育は「物事の根本」ではなく、相変わらず、うわべの、数式解法テクニックを教えている有様だからです。

そして、高校生の多くが、「数学や物理、化学が苦手だから、文系になる」という「消極的な理由で文系を選択」する傾向も問題ですよね。
語学が好きだとか、歴史、文学、法学が好きだとか、積極的な理由で文系になってほしいものです。

と、とりとめなくなりそうなので、この続きは、「国語」教育を考える記事に書かせていただきたいと存じます。ふふふのふ。
by 門前トラビス (2010-03-31 22:16) 

azm

ども!
まさに数式は、”数式とは理屈を普遍的な形に置き換えたものに過ぎない、”ですね。
数式は云わば自然に満ち溢れる音楽を誰もが、分かる形に、見える形にする楽譜なわけです。楽譜は読めてもメロディーが浮かばない、演奏できない、歌えない、というような教育なんですね、きっと。今の教育は。
数式をもってその数式が表す現象をイメージできるような教育でないといけません。
本来、教育は、答えのあるものを覚えるのではなく、この世の中で何が分からないかに気付き、それを知ろうとする力を養うべきものですよね。
日本で問われるのは1+5=?の答えですが、?+?=10の?を考えさせるどこかの国の算数のように、答えを見つけるのではなく、如何に問いを発するか、そんな力を養うべきです。

世の中、分からないこと、不思議なことだらけなんですから。
答えのあることなんて少ないんですから。答えだって一つじゃないんだしね。


by azm (2010-03-31 23:43) 

門前トラビス

To azm様、コメントありがとうございます。
いやあ、本当にそうですね。
決まった答えを求めさせる教育ではなく、答えから「質問」を作らせたほうがよっぽど深く物事を考えますよね。
覚えても使えない知識ではどうしょうもないですものねえ。

まさに「受験のための学問」なんですから・・・・・
あと教える側にも、生徒のモチベーションが上がるような工夫がないといけませんよね。
教科書を棒読み、みたいな教師も多かったからなあ~。
考えるほどに奥が深く複雑怪奇な問題ですね。
by 門前トラビス (2010-04-03 00:06) 

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