2020年。悪いデキゴトにも理由(必然)があると思って、頑張りますわさ。 [日常]

2020年1月3日。

箱根駅伝の青山学院大ぶっちぎり優勝より、テレビ東京「新春!芸能人対抗駅伝」の猫ひろしさんの激走に感激したワタクシ。いやはや猫さんはすごい。しかし小島よしおさんや井上咲楽さんもすごかった。来年(2021年)正月もこの企画が楽しみだわ・・・って気が長いオレ。

話がかわって昨年末の不可思議なデキゴトについて。

大晦日の午後2時。ご近所のスーパーで食材を買おうと、愛車ダイハツ・ムーヴでいざ出発・・・と思いきや、なぜか車のエンジンがかからない。セル(って今も言うのかね)はガッと動くものの、そのあと「プシュー」つう虚しい音で終わるエンスト状態。車から降りボンネットを開け、エンジンまわりを目視確認。ふたたびエンジンをかけるものの症状は同じ。相変わらず始動しません。

ワタクシ職業が一応「エンジニア」ですので、こーゆーときはマニュアル(取扱い説明書)を見るものだよ、と文面眺めるも答えは見つからない。「バッテリーが弱ったか、オイルか、プラグか・・・」と自分に対して説明をつけ、再再度、トライするも結局エンジンはかからずじまい。うーーーん。困ったもんです。

ま、買い物なんて年明けでいいわ、年末年始は三食うどんだぜ、と勝手に納得したワタクシ。外出を断念し、居間で飼い猫そらを撫ででおると、家の者が「エンジンかかったよ~~」という。え、まじ??

家の者によると、別になんの問題もなく、いつものように車を操作、いつものようにエンジンがかかったという。

なんで?さっぱり分からん。私がさんざん苦戦してダメだったのに家の者だと一発OK。いや、ワタクシがふだんほとんど車を運転しないなら「操作ミス」もありましょうが、前週は出張先で400km走り、この日の朝も浦安方面まで運転しているワタクシ、そこまで耄碌(もうろく)はしておりません。

さて、こーゆーとき、皆さまはどう考えるでしょう。

ちょっと話はおおげさになるけど、思うように事が進まない、とか、悪いことが起きた時、ワタクシは「なんらかの理由(必然・意味)がある」と考えますね。今回の件でいえば「急に気温が下がったため、電気系統が作動しなかった」といった論理的理由ではなく、もしも、そのとき、ふつうに車のエンジンがかかって路上に出ていたら事故にあっていたのかも・・・のつう非論理的なものです。

悪いデキゴトは、その反作用として得られた良いデキゴトとバランスしているはず、という発想ですね。

たとえばワタクシはいま右ひざを怪我していて、杖無しでは歩けません。趣味の散歩は論外、という寂しい状態です。しかし、この怪我とて「必然があって起きた」はずで、いまは散歩すべきではない、という何らかのサジェッション(暗示)だと思うわけです。

観方によっては、失敗を、自らの努力不足に帰するのではなく、「成功のもと」だと言い訳する、もっと言えば人智を超えた神の思し召しにすり替える「卑怯な納得」ととらえるかもしれません。しかし努力すればモノゴトすべて成功するわけではない。たとえば災害、病気、事故など、個人努力でカバーできないことは多い。ワタクシとしては「どんな悪いデキゴトにも、なんらかのプラス理由(意味)がある」という考えはしっくりするしココロが安らぎます。

こうゆう話をすると、すぐに宗教?オカルト?と色眼鏡でみるヒトがいるけど、そうではなく世界をどうとらえるか、という個人の哲学(世界観)です。もちろんスピノザのように「世界には偶然などはなく、すべて必然である」とまでは申しませんが・・・。

私の場合、高校生のころ読んだ旧約聖書の「ヨブ記」のインパクトが大きかったと思います。どんなに正しいことをしても、神から苛酷な苦難(重篤な病)を課せられるヨブの物語に「いくら神様だからって、そりゃいかんでしょう!」とツッコミたくなった当時の私。しかしライプニッツのモナドロジーを信奉するいまの私は、ヨブの受難とて、ちょっとは腑に落ちております。

(たぶん)良いことも、悪いこともある2020年でしょうけど、ライプニッツさんの「正しい(と信じる)ことをしていれば、必ずモノゴトはよくなる」という名言を信じて頑張りましょうか。というわけで、

猫ひろしさん、頑張って!・・・って、最後はそっちかよ。ちゃんちゃん。 

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